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安保法制とキリスト者について

久しぶりの投稿になります。この間、色々な事を考えてはいたのですが、なかなか考えを「まとめる」時間がありませんでした。しかし、この問題については、自分の考えを表明しておかなければ、と思いましたので、投稿したいと思います。

 

ご承知のように、安倍政権は安保法制を衆議院で可決させました。憲法の規定により、この法制の成立は「確定」したことになります。このやり方を巡って、メディアやSNS上がすさまじい事になっています。恐らく読者の方も、経験しておられることでしょう。その波はキリスト教界にも大挙して押し寄せているように思えます。

 

けれども、それを見ていて少々気になることがあります。それは、牧師やリーダー的立場にある人が、明らかに政治行動と思われるような反対活動を堂々と行っていることです。

 

もちろん、個人としての政治的意見の表明は自由です。どこでどのような形で意見を表そうと、その権利は保障されている。これは明白です。しかし、こと牧師や指導的立場にあるキリスト者には、注意と自制が求められる、ということです。

 

なぜなら、キリスト者の中にも、この問題に必ずしも「反対」の立場でない人もいるはずだからです。いや、「積極的賛成」の人もいるのではないかと思います。そこで、もし牧師の職にある人が、自分の意見を余りに明確に表すならば、教会員の中には心を痛める人が出てくることが、私には容易に想像できるのです。

 

いうまでもなく、キリスト者だからといって、安保法制に反対しなければならない義務など、全くありません。私自身は、現政権を支持する者ではありませんが、それでも、次の事はわきまえているつもりです。それは、

 

「キリスト者であっても、安倍政権を支持し、安保法制を支持する自由はあるのであって、教会の中では、そのような人々も同じように尊重され、同じように受け入れられなければならない。」

 

ということです。

 

ところが、牧師が「反対!」と声高に叫び、SNSに投稿し、また実際の反対活動まで行ってしまうならば、どうでしょうか。「ついていけない」と思う人も、出てくるのではないでしょうか。

 

「いや、うちの教会にはそういう人はいないから大丈夫です」との答えが帰って来るかも知れません。もしそうならば、私は問いたいのです。

 

「それは、ただ単に、牧師の考えに違和感を感じた人がいなくなっただけではありませんか?」

 

と。「純化路線」を貫いた結果、牧師にもの申す人が、いなくなってしまったのではないか。そう危惧するのです。しかし、私の感覚からすれば、それは「教会の死」ではないかと感じるのです。評価が分かれそうな政治的問題について、「示唆」や「個人的見解」の枠を超えて、余りにも強力な反対姿勢を表明することは、教会を分裂の危機に導き、”純化”路線の危険に陥れかねない、と私は懸念しているのです。

 

知り合いのある牧師の言葉が、印象に残っています。彼は、自民党支持の信徒の人から「これでいいんでしょうか?」と不安げに尋ねられたとき、こう答えたと言います。

 
   

「私は、教会の中に、自民党でも民主党でも、さまざまな考え方を持つ人々がいるのを見て嬉しく思います。それこそが、キリストにある一致を現す教会だからです。」

 

私にとって、この言葉は目から鱗、の思いでした。そうです。本来、イエス・キリストが説いた「神の国」とは、人間のもつ党派性や思想や人種や文化を超えたところにある、「生ける神による、生きた一体性」が実現しているところである。私はそう確信しています。

 

しかし、余りに明確すぎる意見の表明は、教会の中からそのような一致を奪い取り、教会を敵味方に分けかねない、重大な危険があると思います。皮肉なことに、ある政治思想に反対することでこの世の『安全』や『平和』を追求しようとした結果、教会の内部から『平和』や『一致』が失われる、ということにさえ、なりうるのです。

 

なぜこう言うかというと、現在の「反対」運動は、多分に「党派性」と結びついているように見えるからです。つまり、事実上は安保法制や秘密保護法といった「個々の」事例に対する反対というよりは、「自民党そのもの」に対する反対、と言った趣が強いように思われるからです。しかしそれは、非常に重大な問題を引き起こす、ということを私は申し上げたいのです。

 

その具体例を一つあげたいと思いますが、太平洋戦争前夜の1935年、大分県の警察部長になった村田五郎という人が経験した事例として、以下のような出来事があったそうです。

 
   

村田が警察部長として赴任すると、部下から『村の駐在所のどちらを使うか』という質問があり驚いて質してみると、大分県には村ごとに駐在所が政友会系・民政党系と二つあることがわかった。政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するというのである。

   

─「昭和戦前期の政党政治」p.274(筒井清忠著、ちくま新書、2012年)

 

 

 

開いた口が塞がらないとはこのことでしょうか。しかし、実はもっとすごいことが書かれています。

 
   

結婚、医者、旅館、料亭等も政友会系・民政党系と二つに分かれていた。例えば、政友会の者は政友会の者同士で結婚し、「反対党の医者にかかれば一服盛られる恐れがある」ので「反対党系の医者には絶対にかかろうとはしない」「家人は同じ政党系の医者に診てもらうために8キロであれ10キロであれ、病人を戸板に乗せて運ぶ」のである。

   

─ 前掲書、p.274

 

この他にも、道路・土木工事といった公共事業も、政権が変わるたびに前の工事を打ち切るので、大分県では同じ方向に伸びる道路が二本並行することになった、とさえ書かれています。

 

いかがでしょうか。党派性というものが過度に鮮明化された時、行き着く所はこのようなところなのです。しかし、私は現在の風潮を見ていると、一般社会も実はすでに上記のような道へ再度、足を踏み入れつつあるのであり、それどころか、教会の中にさえ、そのような傾向が忍び込みつつあるのでは無いか、という危惧を抱いているのです。

 

・・・

 

重ねて書きますが、私は、「個々人が自分の政治的見解を表明する自由を持っている」ということは、100%賛同しています。それは冒頭にも書いたとおりです。私はここで、安倍政権に反対するな!と言いたいのではありません。むしろ逆です。私自身、現政権のやり方に賛同している訳ではありません。むしろ、反対の思いが強くあるわけです。しかし、その反対を「どう現すか」ということにおいて、知恵が必要である、と考える者です。教会人の場合、反対する自由を「行使」するにあたっては、慎重なる検討と配慮とが求められる、と思うのです。

 

なぜなら、これまで述べてきた、そうすることが教会に分裂をもたらす危険があるからであり、さらにいえば、無用の誤解を周囲に与えることになりかねないからです。それはつまり、

 

「あの○○教会(あるいは○○教団)は、反○○党で結束している一枚岩の集団なのだ。」

 

という印象を、周囲の人々に与えてしまうからです。あからさまな政治的活動をするということは、そういう印象を周囲に振りまくことと同義なのだ、ということを、牧会者全般は肝に銘じなければならないと思います。

 

見解の表明は、あくまでも公私を明瞭に分け、肩書きなどは書かずに、「いち個人」として行うべきでしょう。そして、もし万が一、「肩書きをはずしたいち個人」として行うことに抵抗を感じるのであれば、そのような活動はやらない方が良い、と私は思います。なぜならそれは、社会的立場や数に頼んでいるだけで、本当に主に依り頼んでいる、とは言えないと思うからです。

 

そして、まさに上記の理由から、私は、教職者や指導的立場にあるキリスト者のみを対象とした、「~の会」を作ることに、懸念を表明する者の一人です。

 

「キリスト者」「牧師」「クリスチャン」

 

といった用語を用いた団体を立ち上げて政治活動を行うことには、大きな問題があります。それは一般社会に向けて、「キリスト者とはこう考えるのだ」「牧師ならばこうだ」「クリスチャンならこうあるのだ」というメッセージを発することになるからです。その結果、関係の無い教職者や信徒をも、巻き込む可能性が生じるのです。

 

・・・

 

いま、私たちはもう一度、聖書に立ち返るべきであろうと思います。私たちが聖書から学ぶべきことは、主イエス・キリストは、いかなる形の政治的活動によっても、神の国の打ち立てようとはなさらなかった、という単純な原則であろうと思います。

 

ペテロやパウロといった使徒たちも、その原則を守り通しました。唯一、パウロはカイザルへの上訴権を行使しましたが、それは主がローマに向かうよう召しておられることが明白だったからであり、ローマに行くべき必然性があったからです。

 

使徒達に目を向ければ、政治的立場の異なるさまざまな人々がいました。たとえば熱心党員のシモンです。ローマの支配を打ち破るためには武力も辞さない。それが「熱心党」の思想でした。現代的に言えばまさに「急進左翼」でしょう。その一方で、取税人のマタイがいました。彼は、ローマ帝国に代わって同胞のユダヤ人たちから税を取り立てていました。「ローマの犬」以外の何物でもありません。(”ローマ”を”アメリカ”に置き換えると、実はマタイの立ち位置は今の自民党なのかもしれません。対米従属保守という点で。) そうかと思うと、「庶民」代表のペテロやヤコブの兄弟たちがいました。

 

使徒たちは、実に多様な政治的背景を持つ人々とだった訳です。彼らはしかし、イエスの弟子になった後も、てんでばらばらに、それぞれの政治活動を続けていたかというと、そうではなかったでしょう。「この世のものではない」神の国の力を知った彼らは、政治力によってではなく、聖霊の力によって、その国を打ち立てようと立ち上がりました。彼らが「キリストにあってひとつ」とされていました。そこに人々は魅せられていったのです。

 

世の人々は、私たちが想像する以上に、私たちのことを良く見ています。私たちの「動機」を見抜いているのです。本当の意味できよめられていなければ、本当の意味で探られていなければ、表面的な「反対表明」は、見向きもされません。

 

キリスト者とは、世に反対することにその存在意義を持つのではなく、キリストを愛することにその最大の存在意義をもつ。

 

これが、私たちの立つべき位置ではないでしょうか。

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コメント

 先生のご意見にほぼ同意(ほぼと申し上げたのは、問題の法案に対する個人的意見が異なるためであって、貴稿に異論を差し挟むものではありません)するとともに、主のみからだである教会を愛し、大切に思う先生の思いに感激しています。
 最近FBを見ると、同労の方々からの「戦争法案に反対せざるは基督者に非ず!」とでも言いたげな投稿やシェアを散見し、少なからず不安感を覚えています。特に、ある後輩のシェアが目に付くものですから、つい「○っち(失礼m(_ _)m)は静かだなぁ」と思ってやってきましたfoot
 小生は、先ほど付記したように問題の法案については容認の立場ですが、クリスチャンの間に反対意見がなくなることは絶対にあってはならないことだと思っています。ただ、多様性を認めるべき所で踏み絵や魔女狩りに躍起になったり、あくまでもみことばの適用の幅のあるところに一致を作り出そうという動きに辟易しています。
 そして、もう1つ2つ気になるのが、反対する牧師やオピニオンリーダーたちの節操のなさです。何だかお坊さんや神主さん(入っていたっけ?)たちと一緒に反対運動を、宗教の壁を乗り越えて一致協力して云々とか、FBのシェア記事でも見ましたが、それは伝道者という立場を前面に掲げてすべきことでしょうかねぇ。お坊さんとも神主さんとも仲良く広島東洋カープを応援しましょうってのなら話は分かるけど、伝道者が僧侶や神主と協力して作り出す平和は、神の平和なのでしょうか?
 もう1つは反対者の論拠があまりにも突飛なところですが、コメントはここまでにします。
 とにかく、ご投稿ありがとうございました。
 お働きが祝されますように。

追伸。
FBで紹介させていただきますねヽ(´▽`)/

拙ブログで紹介させていただきます。

プロテスタントのクリスチャンとして先生の記事に深く共感しました。
Facebookにてシェアさせていただきました。

「教職者や指導的立場にあるキリスト者のみを対象とした、『~の会』を作ることに、懸念を表明する」理由が、「一般社会に向けて、『キリスト者とはこう考えるのだ』『牧師ならばこうだ』『クリスチャンならこうあるのだ』というメッセージを発することになる」「その結果、関係の無い教職者や信徒をも、巻き込む可能性が生じる」だけですか?

「学生の会」にしたって「学者の会」「ママの会」「教職者の会」にしたって、当然有志が集まっているのであって、それによってそのカテゴリに属する全員がそうだなどと思いますか? そんな誤解をする人がいるならその認識力の方が問題では? 無名の一市民でありながら、同じカテゴリに属する者同士が集まって問題意識を共有し、かつその同じ属性だからこそ言える言葉があると思うのですが???

教会内の分裂を恐れるなら、究極的にはあらゆる発言を控えるべし…となりませんか? 聖書解釈や説教の内容、教会観、牧師観、将来のビジョンを巡ってだっていくらでも論争の種はありますよ。なぜ政治の話だけ取り沙汰されるのかが謎です。

「『キリスト者とはこう考えるのだ』『牧師ならばこうだ』『クリスチャンならこうあるのだ』というメッセージを発することになる」ことを懸念するなら、クリスチャンは政治家として立候補すべきではありませんし、石破、麻生、山谷などのクリスチャン議員にも発言を自粛していただかなければなりませんよね?

松谷様

コメントありがとうございます。松谷さんのような疑問が出てくることは、当然想定しておりました。その上で、私の見解を申し上げます。

> 教職者や指導的立場にあるキリスト者のみを対象とした、『~の会』を作ることに、懸念を表明する」理由が、…関係の無い教職者や信徒をも、巻き込む可能性が生じる」だけですか?

「だけ」と仰いますが、これは重要なことだと思いますが。一般の社会に属する者にとって、教会とは「謎の組織」でしょう。だからこそ松谷さんも、サブカル系の方々に訴えるような宣教活動をされている訳ではありませんか。その背後にあるのは、「教会は一般社会から理解されていない」という危機感があるからでしょう。その「理解されていない」教会の代表者が集まって、特定の政治活動をすれば、その代表者の所属する組織「全体」がそうだ、と誤解する人が、少なからず出てくるとは思いませんか? 本当に純粋に活動したいのなら、肩書きを捨てるべきです。それについては、記事中に書いたとおり、何も言いません。でも、「個人」の立場を捨てて、あえて「群れ」を作る理由は何でしょうか? 数に頼みたいからではありませんか? しかも、なぜ「牧師」という「肩書き」に訴えるのでしょうか? 「有志の会」ではだめなのですか? なぜ「牧師」を群れさせるのですか? そこが謎です。

> 「学生の会」にしたって「学者の会」「ママの会」「教職者の会」にしたって、当然有志が集まっているのであって、それによってそのカテゴリに属する全員がそうだなどと思いますか? そんな誤解をする人がいるならその認識力の方が問題では? 無名の一市民でありながら、同じカテゴリに属する者同士が集まって問題意識を共有し、かつその同じ属性だからこそ言える言葉があると思うのですが???

そうでしょうか? 「学者の会」と聞いたら、一般の感覚では「学者の方はこう考えるんだな」と思いますよ。安保法制の審議で憲法学者が三人とも違憲と言いましたが、あれを聞いたら誰でも「学者は違憲で固まっているのだな」と思いますよね。同じことです。「ママの会」「学生の会」については、確かに一部=全体と考える人は少ないでしょうが、それでも、「ママ(学生)である『立場』を利用して訴えたいものがある!」という主張は強く伝わって来ますよね。私が疑問視しているのは、果たして「牧師」や「キリスト者」という肩書きを、そういう類の属性として「利用」することがふさわしいかどうか、ということです。そもそも、松谷さんが書かれているように、「無名の一市民」ならば、肩書きを取り払って、あくまでも無名で活動すればいいではありませんか。なぜそうしないで、「属性」を前面に出して主張するのでしょう? そこが謎です。

> 教会内の分裂を恐れるなら、究極的にはあらゆる発言を控えるべし…となりませんか? 聖書解釈や説教の内容、教会観、牧師観、将来のビジョンを巡ってだっていくらでも論争の種はありますよ。なぜ政治の話だけ取り沙汰されるのかが謎です。

「教会の分裂を恐れる」という文言は、私は記事中で一言も語っていませんよね。なぜそう理解されるのでしょうか? 分裂を恐れるあまり無口になるという、戦中のキリスト教界の轍を踏むつもりは毛頭ありません。反対すべき時には反対します。それは、自らの信仰の領域が脅かされたときです。つまり、この世の神を神とするよう、強制を受けたときです。そのときは反対します。しかし、今はそのときではありませんね。むしろ私がこの記事で問いたいのは、「教会とは何のためにこの世に存在しているのか否か?」ということです。政治活動のためでしょうか? いいえ、違うと思います。それとも、松谷さんは、「クリスチャンであれば自民党を支持すべきではない。安倍政権を支持することは信仰に反する」と仰いますか? 問われているのはそこではありませんか。私は「そうではない」と言います。それがこの記事で言いたかったことです。

またそもそも論としては、「分裂を恐れるなら」とありますが、松谷さんは「分裂など恐れないでいい」と仰りたいのでしょうか。秘密保護法や安保法制は、教会分裂をも辞さない「ほど」のイシューだ、というご判断でしょうか? そのようにも聞こえますが・・

確かに、分裂をも辞さずに決めなければならない「時」もありえます。しかしそれは、純粋に神学上の問題であるべきで、政治上のイシューであるべきではない、というのが私の考えです。もし政治が分裂をもたらすのなら、教会は政治に支配されていることになります。そのような教会に、誰が魅力を感じるでしょうか・・

> 「『キリスト者とはこう考えるのだ』『牧師ならばこうだ』『クリスチャンならこうあるのだ』というメッセージを発することになる」ことを懸念するなら、クリスチャンは政治家として立候補すべきではありませんし、石破、麻生、山谷などのクリスチャン議員にも発言を自粛していただかなければなりませんよね?

論点がずれていますし、議論が飛躍しています。少なくとも、石破さんや麻生さん、あるいは山谷さんなどは、「私はクリスチャンだ」と前面に掲げて、それで政治を行おうとはしていませんし、それでクリスチャン票を得ようともしていないですよ。

ところが、「牧師の会」「キリスト者の会」は、牧師であること、キリスト者であることを「前面」に掲げていますね。会の名前がそうなんですから、否定しようがないです。明らかに、自分の属性や立場を利用しようとしていますよ。つまり、石破さんや麻生さんですらしていないことを、やってしまっていることになります。私は、そういうことにおける「節度」が必要ではありませんか、とこの記事で申し上げたつもりです。

繰り返して申し上げますが、私はクリスチャンの政治活動の「全般」を否定しているのではありません。それは100%理解しています。問題と思うのは、「肩書き」を利用して「群れ」を作り、「数」に頼もうとする姿勢です。それは、教会のあるべき姿ではないと思います。

取り急ぎ、お返事まで。

管理人 様

丁寧な応答に感謝いたします。

「クリスチャンであれば自民党を支持すべきではない。安倍政権を支持することは信仰に反する」などとは毛頭思っておりません。

ぜひ続きはリアルな場で議論ができたらと願っております。

機会がありましたら、「キリスト新聞」の投書欄にもぜひご意見をお寄せください。

ありがとうございました。

管理人様

江差伝道所の藤崎裕之牧師が昨日この記事をFACEBOOK上で引用し、批判的な意見を述べておられるので参照されてください。

他者の記事を肯定・否定するにせよ、引用するのであれば、引用先に一言ことわりを入れるのが最低限のマナーであるかと思います。

https://www.facebook.com/hiroyuki.fujisaki.54?fref=nf

初めてコメントします。プロテスタントです。
私も、安保法案を戦争法案と称して反対を声高に叫ぶ日本の教職者の多さに違和感を感じている者です。
安保法案は集団安全保障体制の強化のためのものであり、集団安全保障体制とは、日本よりもはるかに多くのクリスチャンがいるのに戦争を繰り返し、とくに20世紀には2度の世界大戦の苦い経験をした西欧諸国が二度と互いに争うことがないように編み出した知恵と理解しており、その理解の下で私は安保法案を支持しています。
それとも、集団安全保障体制など、聖書的でない、小さき人間の浅知恵に過ぎないのでしょうか。であるならば、国連憲章もそうだし、NATOもそうです。皆様はどうお考えなのでしょうか。私は、世に妥協しすぎているのでしょうか。

フェイスブックにてシェアさせていただきます。
おっしゃる通りです。

牧師をしております。

私も、全く同意見で、同じ内容の事を何人かの牧師仲間には以前から話して来ました。

非常に理路整然としており、私の拙文で書き込むよりもと思い、昨日FaceBookでシエアさせていただきました。

未公開グループで、社会問題を語るキリスト者の会と牧師の会です。

連絡が遅れた事をお赦し下さい。

管理人様へ

僕自身も管理人様と同意見です。
実をいうと洗礼を受けることを真剣に考えて
地元の教会に求道者として礼拝や勉強会に
参加したのですが、教会の牧師先生や教会役員の
信者の方から社民党や共産党といった
いわゆる左翼の政党を支持するよう強要された
為に二人と口論となり、以後、そこの教会には行かなくなりました。実は牧師、教会役員と口論になった際に
「あなたたちが左側の政党を支持したければ、それは自由です。しかし、僕にだって自民党を支持する自由はあるはず。そもそも、ここは祈りの場。大切なのはお互いの主義主張を超えて、共に祈る事ではないのか。」さらに僕はこうもつけくわえました。「断っとくけど、教会に来る人には、それぞれ一人、一人の思いはあるはず。その一人一人の思いを大切にするのがキリスト教ではないのか?自民を支持する人、民主を支持する人、それこそ公明党を支持する人が来たってOKなはずですよ。もし、そんなバラバラな人たちを一つにするものがあるとしたなら、神であるキリストへの祈りではないのか?」などと僕なりに必死で訴えたものの二人からは
「いや、そうではなく、何が一番正しいことなのか、何が絶対の真理なのかで判断してほしい」などと訳の分からぬ事を言われる始末。
残念ながら、そこの教会に通う事を止めてしまい
洗礼も受けることなく今日まで来ています。
それだけに、管理人様の意見、考えをブログを通じて、知る事が出来てとても感激しています。
幸い、地元の他の教会の中にも僕の考えに理解を示してくださる教会もあるみたいなので、機会があれば再度、別の教会を訪ねてみようと思います。

フェイスブックにてシェアしたいと思います。
ブログの文章を一読して。大きく心を打たれ
感動を覚えました。
フェイスブックを通じて交流している人の
中にはクリスチャンの方もいて
ぜひ一読を進めたいと思いました。
https://www.facebook.com/nk.suzuki

こんにちは。初めまして。最近、友人がこのページをfacebookで紹介してくれて、拝読いたしました。もうびっくりです。まさしく同じ問題意識を持って所属教会の牧師とやりとりを重ねたあげく、やはり一信徒にしか過ぎない者の悲しさで、結局は精神的なプレッシャーがものすごくて身体を壊し、母教会には行けなくなりました。さいわい、神さまの憐れみによって、別の教会が与えられ、いま、そちらに籍を移したところです。私がこんなつらい思いをして離れざるを得なくなったのに、その牧師は顧みて態度をあらためるどころか、ますますご自分の信じる方向に邁進しておられます。イエスさまはどうご覧になっておられるでしょうか。私自身は今、おだやかに教会生活を送らせていただいていますけれども、割り切れない思いがどうしてもぬぐえません。同じように考えておられる方の文章を読ませていただいて、本当に嬉しく感謝でした。ありがとうございます。

管理人様
主張されているお立場を支持します。
「その反対を「どう現すか」ということにおいて、知恵が必要である」と書かれていることは、小生のように教育畑にいる者にも参考になります。

はじめまして。安保法案に猛反対しているクリスチャンです。牧師や神父やシスターの方々やお坊さんたちが安保法案に反対し、デモや発言などの行動に移されていることを、信頼して見守っています。日本の教会が、過去に戦争協力をして、戦後、沖縄宣言によって悔い改めた経緯を、ご存じでしょうか?殆どの教会や牧師が、時代の体制に合わせることによって、戦争に協力してしまった過去を、この沖縄宣言によって、悔い改めました。安保法案が成立したことが良いと考えている人が教会に行くのはかまいません。それは個人の自由です。しかし逆に、過去の歴史を猛省して安保法案に危険性をしっかり学ばれた上で、牧師や神父などの任務に就いている人がいてもかまわないと思います。神は自由意思を人間に与えています。伝道の為に、本末転倒してしまっては、もともこもありません。戦争で儲けようとする兵器づくりの三菱住友東芝などの財閥系の企業に勤めているサラリーマンに、教会に来るななどとは言いませんが、そのビジネスによって人の血を代価にお金を貰っているかもしれないことも考えてほしい。米兵が、教会に毎週来るのはかまいませんが、自分達が日本の思いやり予算で、日本の税金を吸い上げて衣食住を賄っていること、人殺しの訓練をしていること、その上で、神に祈るような奇妙なことをしていることをわかった上で、教会に行けるものなら行ってほしい。貴方の記事を読んだ上で、私は安保法案を叫ぶ教職者達にエールを送ります。今のこの戦争へ向かおうとしている安倍政権の中で、彼らは「天使の群れ」だと、確信します。伝道して教会にたくさん人が来るのはいいことですが、要はかわぶくろの中身の質です。伝道に一生懸命な貴方の働きを賞賛しますが、今どれだけ沖縄や福島が大変なことになっているか、もっと見聞を深めて頂ければ、と願います。是非、辺野古や高江にいらしていただきたい。現代のこの時代が、一人の人間として、見えてくる筈です。カナンスローファームに宿泊されたら、兄弟姉妹に会えるし、是非一度沖縄の人々の話を聞きに行って見てくださいませんか?沖縄は太平洋戦争時に、日本で唯一地上戦があったところです。そして今、再び沖縄が犠牲になろうとしている現実があります。基地が一番に狙われるのですよ!

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