« タイルUIはなぜ使いにくいか | トップページ | Macにおける蔵書管理はBookpediaとPocketpedia3の組み合わせが最強 »

翻訳書評「わたしは決してあなたをひとりにしない」

新年あけましておめでとうございます。細々と記事を書いているこのブログですが、今年も続けて行きたいと思いますので、どうぞ宜しくお願い致します。

さて新年最初の投稿は、レビュー記事の翻訳をしてみたいと思います。2013年1月1日に、いのちのことば社から刊行された「わたしは決してあなたをひとりにしない 主イエスの声に耳を澄ます366日」(サラ・ヤング著・佐藤知津子訳、384頁、1890円)です。

この本は、いわゆる「ディボーション本」と呼ばれるジャンルに属する本で、毎日1~2頁の文章と聖書箇所を読みながら、信仰を深めていくためのものです。毎日触れる、というこの点で、ディボーション本というジャンルはキリスト教書において最もポピュラーなジャンルと言えましょう。

そのような中での、久々の新しい本なのですが、キャッチコピーを見た私は、若干の引っかかりを感じました。「主イエスが今、あなたに語りかける――聖書を神からの直接のことばとして語り直したユニークな聖書日課。数多くの人々に慰めと励ましを与え、癒しを与えてきた世界的ベストセラー、待望の邦訳!」とあったからです。

通常、私たち牧師は、「イエス様はこのように言われました」とは言っても、「私は(イエスとして)あなたに言う」とは決して言いません。神の子であり三位一体の神であるイエスと、土くれにすぎない人間の自分の間には、いくら明確に一線を引いても引きすぎることはない、それほど慎重に線を引きます。ところがこの本は、「イエスがあなたに語りかける」とあります。つまり著者は、「イエスとして読者に語る」という意味にとれます。

これは重大で、見過ごせない問題と思われます。クリスチャンは通常、聖書を人生における究極の権威と認め、聖書に並びうるものはない、と信仰告白をします。ところが、もし「イエスとして語る」ことが許されるのならば、第二、第三の聖書が登場することになります。ですからこれは聖書の権威に関わる、重大な問題と思われたのです。

このような懸念を抱いた私は、本書の出版元であるアメリカではどのように受け止められているのか、レビュー記事をさがしてみました。…そしたら、ありました。的確なレビュー記事が。アメリカの長老派の信徒で、ベストセラーのレビューを中心に執筆している、Challies.comというサイトを運営しているTim Challies氏による記事が。 以下では、そのレビュー記事を翻訳しつつ引用してみたいと思います。(元記事は以下のサイトで読むことができます。http://www.challies.com/book-reviews/jesus-calling

 

サラ・ヤングの「わたしは決してあなたをひとりにしない」(いのちのことば社、2013年。原題:Jesus Calling)を読み始めるまで、私はこの本のことも著者についても何の知識も持っていなかった。キリスト教書ベストセラーの定番だと思ってはいたが、手にとって眺めたことは無かった。私が最初に知りえた事は、この本がAmazonにおいて450件以上のレビューを獲得しており、5つ星評価が殆どで、「役立たず」評価を付けたのは数個しかない、ということであった。私は自分のKindleにダウンロードして読み始めた。

サラ・ヤングは、三世代目にわたる日本宣教師の妻で、セントルイスにある長老派の神学校、カベナント神学校において修士号を取得している。この本は一年を通してキリスト教信仰について考えるための短い霊想集であるが、しかし、この書物には一つの重要かつ極めて重大な「ねじれ」(twist)がある。

私は本書のレビューを以下の二点において行いたいと思う。まず、自分が語る内容について著者自身は何と言っているか、である。次いで、著者は何を語っているか、が続く。つまり、最初の部分では、彼女が語るその基盤について議論し、次の部分は、霊想の実際の内容について見ていく、ということである。

 

自分が語る内容について著者自身は何と言っているか


この書物は「神の『臨在』(Presence of God)」(この本では「臨在」は常に大文字で記されている。<訳注>以下大文字で始まるPresenceを「臨在」と表記)を経験することについての本である。つまり、主との関係をより近いものにするという、すべてのキリスト者が渇望する事柄についての本である。ヤングは「臨在」という言葉を、神が存在するという極めて明白な感覚を描写するものとして用いている。以下がその背景であり、彼女が「臨在」を最初に使用した箇所である。

「ある夜私は、心地よい山小屋のぬくもりを離れ、一人で雪山へと出かけた。深い森に分け入るにつれ、私は自分のひ弱さと寒さへの恐れ、そして月明かりの美しさを感じていた。空気は引き締まって乾き、吸い込むには痛いほどだった。突然、暖かい霧が私を包んだように感じた。私は愛すべき「臨在」に気づき始め、無意識にこう応答してささいた。「愛しいイエス様」。全く私らしくもない言葉であったが、私は自分がイエス様をこれほどまでに愛していると告げたことに、衝撃を受けたのである。この短いやりとりについて思いを巡らしたとき、私はそれが変えられた心の応答であることに気づいた。その瞬間、私は自分がイエス様のものであることを知ったのであった。これは、それまでの私が求めていた知的な答えとはかけ離れたものであった。これこそ、宇宙の創造者なるお方との関係だったのである。」

キャサリン・マーシャルやアンドリュー・マーレーといった作家の影響から、ヤングはこの神の「臨在」を追い求め、どのようにしたら常に神の臨在を知り、また感じられるかを学ぼうと探求し続けた。神への愛において成長し、神と共なにある時間を過ごしたいという願いにおいて成長し、また祈りにおいて神と語り、御言葉を通して神に聞こうとした。彼女が「呼んでおられる神」(原題God Calling)という本を手にしたのは1992年の事であった。(この本は「ある二人の”聞き手”によって書かれた霊想書」であった。この女性たちは、神の臨在の中に静かに待ち、紙とペンを手にし、神から受けたメッセージを記録しようと努めた。それらのメッセージは一人称で書かれ、”わたし”は神を意味していた)。この本が宝物となり、彼女の教科書となったのである。

ヤングはこう続けている。

「それからその年、私は自分も、神との交わりの時を通して、メッセージを受けとることができるかどうかと考え始めた。私は祈りの手帳を何年も書き記してきたが、それは一方通行の交わりであった。私だけが話した。神は聖書を通して交わりをなさることは知っていたが、私はそれ以上のものに憧れていた。私は一層、神が私にその日語られるべきとされる言葉を聞きたいと願った。私はペンを手にして神に聞き、神が語っておられると信じることは何でも書き出そうと決心した。最初に試みたときは何ともぎこちなく感じたが、しかし私はメッセージを受けとった。短く、聖書的で、しかも的確なものであった。私の人生においてまさに時宜を得た内容、つまり信頼と恐れと神に近づくことについてであった。私は自分の祈りの手帳にその応答を書き込んだ。」

あなたは、この本の内容、つまりそれぞれの霊想が、ヤングが主から受けたメッセージ─イエスの「臨在」と平和をより深く体験することを企図したメッセージ─であると分かっても、驚かないことだろう。 「この、神に聞く訓練は、それ以外のどんな霊的訓練にも増して、神との親密さを増し加えてくれた。だから私は、自分が受けたメッセージの幾つかを分かち合いたい。世の多くの場所でクリスチャンたちはイエスの臨在と平和をもっと深く経験したいと探し求めているように思われる。これらのメッセージは、そうしたニーズに応えてくれるであろう」。

我々は以下の点を見過ごす事はできない。私がこの本について人と話したとき、「この本はまるでイエスが読者に語りかけているような書かかれ方をしているんだ」と言うのを聞いたからである。しかし、ヤングはさらに途方もなく大胆な主張をしていることを知っておくことが大切である。すなわち、イエスが彼女を通して語っているのであり、イエスが彼女に与え、そしていま私たちによこしたメッセージである、という主張である。

この主張について、しばし立ち止まって考えるべき時が来たと思う。サラは、神からのある種の新しい啓示だと主張している。彼女は、神が彼女に語り、次いでこれらのメッセージを人々によこしたと言っているのである。当然、我々は彼女が聖書について何を信じているのか、尋ねてみねばなるまい。彼女は、これらのメッセージが聖書と等しいと主張しているのか?それらは聖書に勝るものなのだろうか?

彼女はそのような主張はしていない。いや、直接的には、だが。ある箇所で彼女はこう言う。「私はこれらの言葉が聖書のように霊感されていないことは知っている。でも、それは私が神に近づいていくのを助けてくれたのである」。後の箇所にはこうある。「聖書は、もちろん、無誤(誤りの無い)神の言葉である。私の言葉はこの普遍的原則に矛盾しないものでなければならない」。しかし、これが彼女の語る全てである。彼女は自分の書物は聖書に従属すべきものだと明言してはいるが、実際にそれが何であるか、また我々はそれをどのように受けとるべきかについて語ってはいないのである。それは権威あるものなのか? それは彼女を縛るものなのか、それとも我々を縛るものなのか? もしそれが霊感されておらず、無誤でもないのなら、いったい全体それは何なのか? その答えは得られない。なぜならヤングはすぐに、これらの神の言葉を日々の霊想の形で分かち合い始め、こう言うからである。「私は、神について黙想する中で、神様から個人的なメッセージを受けとり続けている。私の人生に困難があればあるほど、私は造り主なるお方からのこうした励ましに満ちた導きを必要とするのである」。

ジェームス・モントゴメリー・ボイスがあるとき、「われわれの時代における真の闘いとは、聖書の無誤性や無謬性ではなく、その十全性においてであろう」、と語ったことがある。つまり─我々は聖書に頼り続けるのか、それとも他の啓示を待ち続けるべきなのか?─ということである。 「わたしは決してあなたをひとりにしない」において我々は、この問題を非常に明確に見ることができる。ヤングは、聖書は無誤であり無謬であるが、それは不十分である、と教えている。聖書は彼女にとっては充分でなく、暗示するところによれば、彼女は我々にとってもそれは充分にはならない、と教えている。結局、彼女が最も重要だという霊的訓練とは、聖書を読むことではなく、この主に聞き主のメッセージを受けとることにこそある、ということが証明されたのである。彼女が我々にもたらすのは聖書ではない。少なくとも聖書が第一ではなく、イエスから受けたというこのメッセージの方である。

この原則一つとっても、この本は非常に疑わしいものであり、最大限の注意を払って扱われるべき必要がある。ヤングは、主から一直線で来たと主張する言葉を、我々に提示している。けれども彼女は、主がこのようなやり方で我々に語ることを期待すべき何の証拠も与えていない。彼女が与えるのはただ、彼女自身がそれについて経験したことだけである。 いまここで、我々にはいくつかの選択肢が残されている。直ちに読むのをやめるか。これらが主から来たという彼女の主張を拒否しながら読み続けるか。あるいは彼女が言うとおりに彼女を理解して読むか、である。個人的には、もしレビュー記事を書くのでなかったら、私はたちどころにこの本を処分したことだろう。彼女が、イエスの言葉を語る、と主張する限り、私は何の興味も見いださない。けれども、レビュー記事を書くという目的のために、読み進めるとしよう。

 

著者は何を語っているか


ヤングは一年をかけてとりくむ霊想書を、その全てにおいて一人称、つまりイエスからのメッセージとして記している。各々はそれぞれいくつかの聖句が続く。以下は1月8日の霊想の前半部分である。

「わたしは、やわらかに私の臨在を告げる。輝かしい彩りのきらめきが、やさしくあなたの良心に触れ、入口はどこかと探す。わたしは天においても地においても全ての力を持っているが、わたしはどこまでもあなたと共にありたい。あなたが弱ければ弱いほど、わたしはあなたに優しく近づこう。あなたの弱さを、私の臨在の戸のところに置け。足りなさを感じたときはいつでも、わたしがあなたの永遠の助け主であることを思い出せ。」

霊想の大半が命令よりもむしろ確言(affirmation)であることは興味深い。それが意味するのは、この本が規範的であるというより、描写的な傾向に向かうであろう、ということである。我々にどう生きるべきかと語るイエスは少なく、イエスとは誰で、我々は何者で、そしてどうすればイエスの「臨在」を楽しめるかを語るイエスが多い。 以下の点は注目に値する。すなわち、こうした確言が扱っているのはクリスチャンとしての経験の非常に狭い範囲だけである、ということである。さらに、本書イエスの言葉の多くが、聖書においてイエスが語る事とはごく僅かしか類似点がないことも同様に注目に値するだろう。例えば、「わたしの臨在の光を、あなたのただ中へと染み渡らせよ。あなたの思考の焦点をわたしに向けるようにして」とあり、その少し後にはこう続く。「わたしの臨在の神秘の中に隠れることを学べ。この世において、あなたの義務を行うかのようにして」。私にはこれが何を意味するのか分かりもしなければ、どのように適用できるのかも分からない。そこには私が従うべき明瞭なる命令もなければ、イエスとは誰かについての、何の明確なる言葉も無いのである。

 

結 論


「わたしは決してあなたをひとりにしない」は、それ自身のあり方において、非常に危険な書物である。その神学は概ね妥当に聞こえはする。しかし私が最も関心を抱くのは、本書がイエスから直接言葉を聞くよう教えていること、そして、そのような言葉を分かち合うのがクリスチャンの普通の経験である、と教えていることである。事実、本書はその経験を他の全ての上に置いている。そして、このことは本書をして、危険な前例とならしめている。私は、この本を推薦するべきいかなる理由も見いださない。

 

いかがでしょうか。「一人称のイエスが自分に語りかけてくる」という点は、確かにこの書物をして「新しい!」と感じさせてくれるでしょう。これまで、そのような語り口をする書物は殆ど見られなかったからです。

しかし、考えてみて下さい。なぜ人々はこれまでそのような語り口をしてこなかったのだろうか、と。そこには明白な理由があります。なぜなら、もしそのようなことをすれば、それは聖書に並び立つ権威を提示することになり、ひいては聖書の軽視、さらには聖書の否定にまで繋がっていく危険性をはらんでいるからです。 敬虔な人々は、そのような危険性を十分に理解し、注意深くそのような愚かな振る舞いを避けてきました。聖書の権威がいささかも貶められることになってはならない、と。

この書物では、その原則が事実上、破られようとしています。いや、破られたと言えます。著者の個人的な体験に過ぎない言葉を「イエスからのもの」として「他者に提示する」ということは、著者をして、聖書記者と同列の地位に置くことに他なりません。たとえ著者が文言としてはそれを否定したとしても、実際行っていることは、聖書の軽視に等しいのです。

そもそも、私たちが、彼女の言葉が本当にイエスによって語られたかどうかを検証する手段が何もないことが問題です。悪霊が語っているのでないと、何を根拠に言えるでしょうか。ただ聖書に照らし合わせるしかありません。しかし、著者は聖書を語るのでは無く、「イエスの言葉」を「一人称」で語ろうとします。これは、聖書の権威に服する者の姿ではありません。

Challies氏がレビュー記事の中で、J.M.Boice氏(福音派の著名な著述家で、多くの書物や記事で知られる)の言葉を引用しています。「われわれの時代における真の闘いとは、聖書の無誤性や無謬性ではなく、その十全性においてであろう」。これはまさしく正鵠を射た指摘であると思います。「個人預言」や「啓示」と言った言葉は、一部の急進的なペンテコステ派のサークルの中では頻繁に聞かれる言葉です。しかし、この書物のように、穏健福音派のサークルの中にも、それは形を変えて入ってきつつあるのだ、ということを、私は感じています。

・・・

もちろん、著者の姿勢に共鳴する部分が無い訳ではありません。味気ない祈り、無味乾燥なディボーション。多くのクリスチャンが、そのような経験を持っています。それを何とかしたいと思っている人は、少なくありません。

しかし、そのような営みはあくまでも、当事者であるクリスチャンが「聖書を土台にして」、主と個人的な交わりを築いていく、そのプロセスの中でこそ生まれていくものであって、サラ・ヤングという他人を通して行われるものではありえないのです。たとえとしては不適切かもしれませんが、それは下手をすると、某政党を立ち上げて政界に出ようとしている某新興宗教代表による「霊言」と、事実上何ら変わることはない。そう言えるかもしれません。いや、本書の場合、それが「聖書的であるかのような装い」をしているだけに、一見するとこれが聖書であると勘違いする人が出そうで、余計に注意が必要であると考えます。

この書物を手にとって、自分のディボーションの糧にしようかどうしようか迷っている方々は、以上のような点を決して見過ごしてはなりません。

私個人としては、このような書物を信徒の方に薦める訳にはいきません。いや、正直な所、このような「聖書に聞かず、イエスに直接聞こうとするムーブメント」が日本のキリスト教界に広がることを、非常に恐れています。出版元であるいのちのことば社に、そのような認識があるのか無いのか、それは分かりません。

ですが、いち市井の牧師として、この問題をそのまま放置することはできないと考え、Challies氏の記事をご紹介しつつ、問題提起をさせて頂きました。

この記事が、本書を手に取る「前」に、参考情報として機能することを願いつつ。

« タイルUIはなぜ使いにくいか | トップページ | Macにおける蔵書管理はBookpediaとPocketpedia3の組み合わせが最強 »

キリスト教」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

神学」カテゴリの記事

コメント

とても共感できる記事です。
以前に見た「Law & Order」というドラマで、印象に残っていた一つのエピソードを思い出しました。修道女の女性が聖ミカエルの声を聞き、それに従って素行不良の少女から悪霊を追い出そうとして死亡させたストーリーでした。
無罪を主張する弁護人に対して、検察官の最終弁論は次のようなものでした。

『私に言えることは、被告人は生身の人間だということです。我々が神のみに認める力を、彼女に行使させてはならない、たとえ神の声を聞いても神として振る舞ってはならないのです。
神からの指示だからと言って、人間の法律から逃れていいはずがない。自宅で少女を殺害した時、彼女は人間の法律に違反しました。神に誠実で思いが強すぎたため、忘れたのです。少女が不死身ではないという事実を。
被告人は、自分の信念が招いた結果に責任がある。神に対してと同様、我々にも責任を負うべきなのです。』

わたしは、聖書以外の権威を示すようなこと、人間に与えられていない能力を示すようなことには、距離を置いて慎重に判断するようにしています。

やっぱりそうでしたか。
私も同じ違和感を感じてしまい、1週間で使わなくなってしまいました。一応、捨てずに手元に参考文献として取ってありますが😥

初めて投稿させていただきます。

信仰の根拠を自己の内面に見出そうとすると、いつの間にかこういう自己の絶対化みたいなことになってしまうのでしょうか。これはたんなる私的言語であって、チラシの裏にでも書いているならばともかく、他者が日々使用するテキストとして世に出すとは驚いたことです。自己の絶対化には気をつけたいものです。

>おばったちゃん 様

コメントありがとうございます。まさに仰る通りかと思います。ただ、現実にはこの書物はベストセラーになり、出版元もかなり販促を行っていましたので、一般の方々に与える影響は大変大きいものと危惧しております。まずは教職にある者が健全な危機感を持つことから始まるのではないかと思っています。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/20036/56502396

この記事へのトラックバック一覧です: 翻訳書評「わたしは決してあなたをひとりにしない」:

« タイルUIはなぜ使いにくいか | トップページ | Macにおける蔵書管理はBookpediaとPocketpedia3の組み合わせが最強 »