参院選を前に思うこと

参議院選挙がいよいよ来週の日曜日に迫ってきています。このところ、報道各社の世論調査によれば、「改憲勢力が3分の2に届く勢い」と報じられています。例えば朝日新聞の以下の調査。

「改憲4党、3分の2に迫る 朝日新聞・参院選情勢調査」

この調査はサンプル数も4万3千以上と、各都道府県につき平均で千近い数を確保しており、信頼性は相当高いものと思われます。つまり、今現在投票が行われたらほぼこの結果になるということです。

この結果を受けて、暗澹たる思いになっているクリスチャンの方は、大勢おられると思います。かくいう私も、暗澹とまではいかないものの、憂慮の思いを強くする一人です。なぜ「暗澹」ではなく「憂慮」かというと、このところ公明党は、自らが「改憲勢力」と括られることに対して明確な反論をし始めているからで、そのことを考えると、明示的な改憲派は自民党と維新の会(とその他)となり、現実的な憲法改正発議にはまだまだハードルは高いものと思われるからです。

最近、このブログをお読みになった方はご存じないかもしれませんが、私は憲法に対しては「基本的に護憲の立場であるが、聖典視はしない」というスタンスを取ります。つまり「不可侵」とか「無謬」などとは思っていない、ということです。

キリスト者としての私は、福音派にカテゴライズされます。つまり、「聖書を誤りのない神のことば」と信じています。また特別啓示としての聖書は「閉じて」おり、何ら付け加えられたり、あるいは取り去ったりされるものではない、と信じています。当然ながら、憲法というものはそうではありません。憲法は人間が造り出したものであり、キリスト者が言う所の「聖典」ではありえません。ゆえに、変更の可能性は、すくなくとも純粋に可能性の面だけから見れば「ありうる」と思っています。そこが聖書と憲法の違いです。

ところが、この辺りのことがどうも日本の福音派の中で、意図的なのか無意識なのかはともかく、混同されているように感じています。とりわけ9条の扱いには、その手の違和感を感じるのです。

前述したように私は護憲の立場を採ります。しかし同時に「憲法9条が日本の平和を守ってきた中心」であって、「9条が変更されると日本は戦争国家になる」という主張については、必ずしも同意できない部分があるのです。

憲法というものはあくまで「文字の集まり」です。言うまでも無く、文字は現実に目に見える平和を「つくりだす」ことはできません平和をもたらすのはあくまでも「人間自身」です。それ以外の何物でもありません。確かに9条の言葉は人の心を打ちます。平和の尊さを訴える力を持っています。少なくとも、現首相が言うような「みっともない憲法」との評とは対照的な、美しいことばです。

しかし、です。だからといって、その「ことば」が実存的な平和をもたらした「主体」であるかのような理解をするとすれば、それは行きすぎだと感じるのです。「平和」とは、「ことば」によって心動かされた人々が現実に生きて働き、平和のために労することによって、初めて実現されるものです。人間の生身の生き様を離れた「平和」はありえないからです。

つまり、

A「憲法9条『』平和を守ってきた

のではなく、

B「憲法9条は人々の心に平和の尊さを訴え、この崇高な理念に動かされた『人々が』、平和を守ってきた

のではないでしょうか。

この辺りのことが、どうも混同されてしまっていて、それゆえに、「護憲」の訴えが人々の共感を呼ばない現状を生んでしまっているのではないか、と危惧しているのです。それどころか、もし上記のAの立場を強硬に主張しすぎると、あたかも憲法9条とひいては現憲法の全体が「聖典」であり「不可侵」であるかのようにさえ聞こえてしまい、中間層に対する訴求力を逆に損なう結果になっているのではないか、とさえ感じています。

たとえば明治憲法第3条には、有名な次の言葉がありました。

天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

この言葉は少なくとも元々の意図だけを見るならば、良く言われるように天皇を現人神、アンタッチャブルな存在(絶対君主)にすることを目論んでいたかというとむしろその反対で、天皇を政治の実際から切り離すための装置(立憲君主)として導入された訳です(参考)。

ところが、当初のそのような意図とは裏腹に、天皇を「神的なシンボル」として自分の利益のために利用する人々が現れました。国家神道はまさにその実例ですし、また「統帥権干犯問題」として知られる事件も広い意味ではそうでしょう。

私たちの国が太平洋戦争の手痛い敗北から学んだことは、まさにその過ちであったはずです。人間そのものや、人間のつくりだしたものを神聖視したり不可侵とする。それがいかに大きな災厄を招くものか。そのことを学んだはずです。

ところが、憲法9条を巡る護憲派(私もその一員であるはずですが)の論理を見ていると、まさに明治憲法が犯したような過ちを、日本国憲法そのものに対して犯しているのではないか、と感じてしまうのです。つまり、日本国憲法を神聖視し、一文字も変えてはならない不可侵なものであるとする、そのあり方のことです。それは下手をすると、形を変えた「明治憲法主義」の印象を一般の人々に与えかねない危険がある、と思うのです。

私は、上記のような危険を強く意識する立場から「護憲ではあるが、神聖視はしない」というスタンスを明確に打ち出している訳です。憲法は変わりうるものです。可能性としてはそうです。ですから「護憲」だからといって、それは「一文字も変えない」という意味ではないはずなのです。本来、正しい意味での「護憲」とは、「日本国憲法の『精神』を大切にして護っていく」という意味ではないかと思います。ところが、現実の護憲運動は「字面を護る」というところに余りにフォーカスを起きすぎているように思うのです。

私は、このようなやり方は憲法観に関して中間的な人を遠ざけるばかりでなく、純然たる護憲派さえも最終的には遠ざけてしまう結果に終わりかねない、非常な危うさを持っていると感じています。というのは私のように、「日本国憲法の精神をしっかりと護りとおせるのなら、字面の修正や一部修正はあり得ない訳では無い」という立場の人も、大勢居ると思うからです。いやむしろ、これはあくまで私の印象に過ぎませんが、現在の日本人のマジョリティは、実は私のような考え方をする人なのではないかと思うからです。実際、世論調査を行うと、「憲法を改正すべきか否か」と聞かれると「否」の割合が多いにも関わらず、選挙の世論調査を見ると、改憲派が多くを占めるという逆の結果が生じることからもそれは分かります。つまり、大衆の受け止め方は案外「積極的に憲法を変える必要はないが、しかし一文字たりとも変えてはならないとまでは思っていない」という所にあるのではないか、と思う訳です。

仮にこの仮説が正しいとすれば、護憲派のとるべき道は「名を捨てて実を取る」という所に置かれなければならないと思います。護憲派が字面の一字一句に拘り続けている間に改憲派は着々と選挙対策を進め、民衆を煽り、圧倒的な多数派を構成することに成功するかもしれないのです。事実、今回の事前世論調査が示しているのは、そのような傾向です。この傾向は、今後も続いていくことと思います。なぜなら、日本だけがそうなのではなく、世界中がそのような流れになっているからです。米国しかり、フランスしかり、イギリスしかり。世界がそのような時代に入ってきている、ということです。そのような時代を見る目を持つことなしに「あくまでも憲法の『字面』を護りとおす」という所に拘泥するのなら、最終的には、最も大切な日本国憲法の『精神』までも失うことになりかねないのではないでしょうか。

私は「字面に拘って、精神を説き広めることを怠る」現代の護憲派の立場が、「律法の字面に拘って、律法の精神については無理解であった」律法学者の姿に時に重なるような、そんな錯覚を覚えることがあります。「律法を護ることが人間を救う」と言うことと、「憲法9条を護ることが平和をもたらす」と言うことは「字面の力に依り頼む」という点で同根と言っても良いのかも知れません。本来はそうではないはずです。律法が人を救うのではなく、律法を通して出会った神への信仰が人に救いをもたらすのです。同様に、憲法9条が平和をもたらすのではなく、憲法9条によって心動かされた生身の人間の生き様が平和を生み出すのではないでしょうか。

ですから、護憲運動の目指すべき方向性は「共感を得ること」に尽きると思います。平和は「人」が生み出すものだからです。ですから「人」に向いていない運動は、たとえそれがその理念においてどれだけ「崇高」に見えたとしても、本当の意味で支持を得ることはできないと思います。そのためには対話が必要でしょう。合意形成のために、根気強く議論を重ねていく必要があるでしょう。

時に私たち福音派は、正義感からか、時間のかかるそのようなプロセスを省略したり軽視したりして、自分の主張だけを主張する純化路線に陥る傾向があります。しかし、先鋭化した主張は幅広い支持を呼ぶことはありないばかりか、かえって中間層をも遠ざける結果に終わるということを、知っておくべきだと思います。私は、民主主義の根幹が「デモ」ではなく「選挙」である以上、選挙においてきちんと議論を行い、支持を拡大できる態勢を地道に構築していくべきだと思います。軸を明確にし、レッテル張りをするのではなく、分かりやすい言葉を用いて、人々の善意に訴える。遠回りに見えても、それが結局は人々の心を動かすことになるのではないでしょうか。

最後に、私たちクリスチャンにとって最も大切なことは、「私たちは、キリストにおいてすでに勝利者である」という事実です。「選挙で支持する候補が敗北したから、人生お先真っ暗」。もしそう考えるとすれば、私たちの説く「救い」は政治体制に左右されるような薄っぺらいものだと暴露したに等しい訳です。本来クリスチャンというものは、「世の中がどのように移り変わるとも、私の救いは揺るがず、神のことばもいささかも揺るがない」と信じている筈です。「この世のいかなるものも、神の愛から私たちを引き離すことはできない」(ローマ8:38〜39)のだからです。まずこの「揺り動かされない軸」をしっかりと持つべきです。

どのような政治体制、指導者が上に立とうとも、私たちの内なる自由はいささかも揺るぐことはなく、私たちの救いは微動だにしません。ここにしっかりとまず立たせて頂く。その上で、自分が追い求めている道が、表面的なものを追い求めているのか、それとも本質的なものに憧れているのか。そのことをしっかりと自己吟味していきたいと思います。

どのような「運動」も、まずはそこから始めなければ、支持を得ることはできない。

今回の世論調査は、そのことを私たちに教えてくれているのではないでしょうか。

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安保法制とキリスト者について

久しぶりの投稿になります。この間、色々な事を考えてはいたのですが、なかなか考えを「まとめる」時間がありませんでした。しかし、この問題については、自分の考えを表明しておかなければ、と思いましたので、投稿したいと思います。

ご承知のように、安倍政権は安保法制を衆議院で可決させました。憲法の規定により、この法制の成立は「確定」したことになります。このやり方を巡って、メディアやSNS上がすさまじい事になっています。恐らく読者の方も、経験しておられることでしょう。その波はキリスト教界にも大挙して押し寄せているように思えます。

けれども、それを見ていて少々気になることがあります。それは、牧師やリーダー的立場にある人が、明らかに政治行動と思われるような反対活動を堂々と行っていることです。

もちろん、個人としての政治的意見の表明は自由です。どこでどのような形で意見を表そうと、その権利は保障されている。これは明白です。しかし、こと牧師や指導的立場にあるキリスト者には、注意と自制が求められる、ということです。

なぜなら、キリスト者の中にも、この問題に必ずしも「反対」の立場でない人もいるはずだからです。いや、「積極的賛成」の人もいるのではないかと思います。そこで、もし牧師の職にある人が、自分の意見を余りに明確に表すならば、教会員の中には心を痛める人が出てくることが、私には容易に想像できるのです。

いうまでもなく、キリスト者だからといって、安保法制に反対しなければならない義務など、全くありません。私自身は、現政権を支持する者ではありませんが、それでも、次の事はわきまえているつもりです。それは、

「キリスト者であっても、安倍政権を支持し、安保法制を支持する自由はあるのであって、教会の中では、そのような人々も同じように尊重され、同じように受け入れられなければならない。」

ということです。

ところが、牧師が「反対!」と声高に叫び、SNSに投稿し、また実際の反対活動まで行ってしまうならば、どうでしょうか。「ついていけない」と思う人も、出てくるのではないでしょうか。

「いや、うちの教会にはそういう人はいないから大丈夫です」との答えが帰って来るかも知れません。もしそうならば、私は問いたいのです。

「それは、ただ単に、牧師の考えに違和感を感じた人がいなくなっただけではありませんか?」

と。「純化路線」を貫いた結果、牧師にもの申す人が、いなくなってしまったのではないか。そう危惧するのです。しかし、私の感覚からすれば、それは「教会の死」ではないかと感じるのです。評価が分かれそうな政治的問題について、「示唆」や「個人的見解」の枠を超えて、余りにも強力な反対姿勢を表明することは、教会を分裂の危機に導き、”純化”路線の危険に陥れかねない、と私は懸念しているのです。

知り合いのある牧師の言葉が、印象に残っています。彼は、自民党支持の信徒の人から「これでいいんでしょうか?」と不安げに尋ねられたとき、こう答えたと言います。

「私は、教会の中に、自民党でも民主党でも、さまざまな考え方を持つ人々がいるのを見て嬉しく思います。それこそが、キリストにある一致を現す教会だからです。」

私にとって、この言葉は目から鱗、の思いでした。そうです。本来、イエス・キリストが説いた「神の国」とは、人間のもつ党派性や思想や人種や文化を超えたところにある、「生ける神による、生きた一体性」が実現しているところである。私はそう確信しています。

しかし、余りに明確すぎる意見の表明は、教会の中からそのような一致を奪い取り、教会を敵味方に分けかねない、重大な危険があると思います。皮肉なことに、ある政治思想に反対することでこの世の『安全』や『平和』を追求しようとした結果、教会の内部から『平和』や『一致』が失われる、ということにさえ、なりうるのです。

なぜこう言うかというと、現在の「反対」運動は、多分に「党派性」と結びついているように見えるからです。つまり、事実上は安保法制や秘密保護法といった「個々の」事例に対する反対というよりは、「自民党そのもの」に対する反対、と言った趣が強いように思われるからです。しかしそれは、非常に重大な問題を引き起こす、ということを私は申し上げたいのです。

その具体例を一つあげたいと思いますが、太平洋戦争前夜の1935年、大分県の警察部長になった村田五郎という人が経験した事例として、以下のような出来事があったそうです。

村田が警察部長として赴任すると、部下から『村の駐在所のどちらを使うか』という質問があり驚いて質してみると、大分県には村ごとに駐在所が政友会系・民政党系と二つあることがわかった。政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するというのである。

─「昭和戦前期の政党政治」p.274(筒井清忠著、ちくま新書、2012年)

 

開いた口が塞がらないとはこのことでしょうか。しかし、実はもっとすごいことが書かれています。

結婚、医者、旅館、料亭等も政友会系・民政党系と二つに分かれていた。例えば、政友会の者は政友会の者同士で結婚し、「反対党の医者にかかれば一服盛られる恐れがある」ので「反対党系の医者には絶対にかかろうとはしない」「家人は同じ政党系の医者に診てもらうために8キロであれ10キロであれ、病人を戸板に乗せて運ぶ」のである。

─ 前掲書、p.274

この他にも、道路・土木工事といった公共事業も、政権が変わるたびに前の工事を打ち切るので、大分県では同じ方向に伸びる道路が二本並行することになった、とさえ書かれています。

いかがでしょうか。党派性というものが過度に鮮明化された時、行き着く所はこのようなところなのです。しかし、私は現在の風潮を見ていると、一般社会も実はすでに上記のような道へ再度、足を踏み入れつつあるのであり、それどころか、教会の中にさえ、そのような傾向が忍び込みつつあるのでは無いか、という危惧を抱いているのです。

・・・

重ねて書きますが、私は、「個々人が自分の政治的見解を表明する自由を持っている」ということは、100%賛同しています。それは冒頭にも書いたとおりです。私はここで、安倍政権に反対するな!と言いたいのではありません。むしろ逆です。私自身、現政権のやり方に賛同している訳ではありません。むしろ、反対の思いが強くあるわけです。しかし、その反対を「どう現すか」ということにおいて、知恵が必要である、と考える者です。教会人の場合、反対する自由を「行使」するにあたっては、慎重なる検討と配慮とが求められる、と思うのです。

なぜなら、これまで述べてきた、そうすることが教会に分裂をもたらす危険があるからであり、さらにいえば、無用の誤解を周囲に与えることになりかねないからです。それはつまり、

「あの○○教会(あるいは○○教団)は、反○○党で結束している一枚岩の集団なのだ。」

という印象を、周囲の人々に与えてしまうからです。あからさまな政治的活動をするということは、そういう印象を周囲に振りまくことと同義なのだ、ということを、牧会者全般は肝に銘じなければならないと思います。

見解の表明は、あくまでも公私を明瞭に分け、肩書きなどは書かずに、「いち個人」として行うべきでしょう。そして、もし万が一、「肩書きをはずしたいち個人」として行うことに抵抗を感じるのであれば、そのような活動はやらない方が良い、と私は思います。なぜならそれは、社会的立場や数に頼んでいるだけで、本当に主に依り頼んでいる、とは言えないと思うからです。

そして、まさに上記の理由から、私は、教職者や指導的立場にあるキリスト者のみを対象とした、「~の会」を作ることに、懸念を表明する者の一人です。

「キリスト者」「牧師」「クリスチャン」

といった用語を用いた団体を立ち上げて政治活動を行うことには、大きな問題があります。それは一般社会に向けて、「キリスト者とはこう考えるのだ」「牧師ならばこうだ」「クリスチャンならこうあるのだ」というメッセージを発することになるからです。その結果、関係の無い教職者や信徒をも、巻き込む可能性が生じるのです。

・・・

いま、私たちはもう一度、聖書に立ち返るべきであろうと思います。私たちが聖書から学ぶべきことは、主イエス・キリストは、いかなる形の政治的活動によっても、神の国の打ち立てようとはなさらなかった、という単純な原則であろうと思います。

ペテロやパウロといった使徒たちも、その原則を守り通しました。唯一、パウロはカイザルへの上訴権を行使しましたが、それは主がローマに向かうよう召しておられることが明白だったからであり、ローマに行くべき必然性があったからです。

使徒達に目を向ければ、政治的立場の異なるさまざまな人々がいました。たとえば熱心党員のシモンです。ローマの支配を打ち破るためには武力も辞さない。それが「熱心党」の思想でした。現代的に言えばまさに「急進左翼」でしょう。その一方で、取税人のマタイがいました。彼は、ローマ帝国に代わって同胞のユダヤ人たちから税を取り立てていました。「ローマの犬」以外の何物でもありません。(”ローマ”を”アメリカ”に置き換えると、実はマタイの立ち位置は今の自民党なのかもしれません。対米従属保守という点で。) そうかと思うと、「庶民」代表のペテロやヤコブの兄弟たちがいました。

使徒たちは、実に多様な政治的背景を持つ人々とだった訳です。彼らはしかし、イエスの弟子になった後も、てんでばらばらに、それぞれの政治活動を続けていたかというと、そうではなかったでしょう。「この世のものではない」神の国の力を知った彼らは、政治力によってではなく、聖霊の力によって、その国を打ち立てようと立ち上がりました。彼らが「キリストにあってひとつ」とされていました。そこに人々は魅せられていったのです。

世の人々は、私たちが想像する以上に、私たちのことを良く見ています。私たちの「動機」を見抜いているのです。本当の意味できよめられていなければ、本当の意味で探られていなければ、表面的な「反対表明」は、見向きもされません。

キリスト者とは、世に反対することにその存在意義を持つのではなく、キリストを愛することにその最大の存在意義をもつ。

これが、私たちの立つべき位置ではないでしょうか。

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秘密保護法案の成立を受けて思うこと

かねてから懸案となっていた、秘密保護法案が衆議院で可決されました。まだ参議院の審議が残っていますが、事実上、成立したとみて良いでしょう。この法案については多くの問題点が指摘されています。法案の中身そのものについては連日のように報道されているのでここでは触れず、この法案の成立を許した日本という国の事情、そしてクリスチャンが心すべきことについて、私の思うところを書きたいと思います。

1.これが民主主義そのものである

今回の法案の成立時に個人的に最も違和感を持ったのは、実は自民党の採決の仕方にではありません。そうではなく、「数の横暴だ!」「これが民主主義か!」と批判したメディアや有権者に対してです。私の見るところ、あのような絶対多数を占めた自民党が、今回のような行動に出ることは至極当然であり、論理的に見ても当然の帰結としか映らないのです。しかも、そもそも与党にそのような絶対多数を与えたのが他でも無い有権者であるとすれば、まさに「これこそが民主主義の選択」な訳です。「数の横暴だ」という主張は、「では、多数派の意見を減じて少数派を重んじれば良いのか」と考えるならば、それはそれで、「より少数の有権者の支持しか受けていない代議員の主張が、多数の有権者の支持を受けた議員を上回る影響力を持つ」という点で、「民主主義」と相容れないように思います。

誤解を恐れずに言えば、議会制民主主義とは本質的に「多数決」なのであって、「少数者の意見を聞くべきだ」という主張は「参考意見として聞く」ことはあっても、それが主流の意見には成りようがないですし、また上記の理由から、そうすべきではない、とさえ言えると思います。ですから、問題は自民党とその議員たちにあるのではなく、「そもそも彼らに絶対多数を与えた有権者の判断のあり方」にこそある」と私は考えるのです。

とりわけ安倍総理大臣は、第一次政権やそれ以前から、今回のような復古的な政治姿勢を持っていることは知れ渡っていました。「知らなかった」では済まされないことです。ですから、そのような人物を首班に抱く政党に投票すると言うこと自体が、今回のような自体を招くことは必然と言える訳です。ですから少なくとも、先の衆院選と、今夏の参院選で自民党に投票した方々で、秘密保護法案には反対という方は、こうなることをなぜ予期できなかったのか、立ち止まって考えてみるべきではないでしょうか

このように書くと「いや私は別に秘密保護法案に賛成した訳ではないのだが」とか「他にマシな政党が無かったので自民党にした」、あるいは「消去法で選んだ」と言う方もおられるかも知れません。

はっきり言いますと、そのような考え方をしている方は、議会制民主主義の本質を、根本的に誤解している、と思います。代議員を選ぶと言うことは、「判断のすべてを委任する」ということです。「このイシューについては委任するが、他のイシューはそうではない」というような、「選択的委任」はあり得ないのです。それは、議会制民主主義ではなく直接民主主義であって、世界のどの国も採用してない精度です。議会制民主主義とは「全権委任をする」ということです。一度選ばれた政治家は、その行動に違法性がない限り、決して身分を失うことはありません。それ程に「全権委任の重さ」が強調されている。それが現在の政治制度というものです。

ですから、私に言わせれば、消去法で選ぶとか、他にマシな政党がないからという理由で自民党に入れると言う行為にこそ、本質的な問題点があったのです。多くの有権者がそのような日和見的な行動をとったことが、今回の事態を招いたと言えます。つまり、問題は自民党にあるのではない。そのような党を選んだ有権者にこそある。私は声を大にしてそう申し上げたいと思います。

そもそも、昨年末の衆院選も、今回の参院選も、投票前から自民党の大勝が予想されていました。そこで有権者が考えるべきは、「もしこの人々に絶対多数を与えるならば、何が起こるか」をシミュレートすることです。現在の自民党にそのような地位を与えるということは、必然的に今日のような結果を招く。いやもっと極端な方向に国を導くことは、「必然」である─。そう考えて、ある一党に独裁的な支配を許すような結果を与えないようなバランス感覚が私たちに求められている、ということです。特に衆院選は「政治に関わる全権委任なのだ」という感覚が必要でしょう。

そのような冷静な思考を持たず、ただ雰囲気に流されたり、勝ち馬に乗ろうとしたり、消去法に頼ったりと言った稚拙な政治行動を取る人が多い限り、日本の状況はこれからも変わることは無いでしょう。ある党に地滑り的勝利を与えないバランス感覚。これこそが、私たち国民にいま、求められていることだといえるのではないでしょうか。

2.キリスト者としてどう対応すべきか

では、今回の法案成立を、キリスト者はどう受け止めるべきでしょうか。結論から言えば、「より一層の知恵深さが求められる」ということです。

今回の法案成立前後に、複数のキリスト教系団体が反対声明を出しました。もちろん、意見表明を行うこと自体が問題だとは言いませんし、歴史の記録として、反対表明の記録を残すという点では意味のあることだとは思いますが、少なくとも純政治的に見た場合、そのような「声明」には、何の効力もないことは自明のことです。誤解を恐れずに言えば、「自己満足」の域を出ない。そう言えるかもしれません。

また、そもそもそのような「反対声明」を出した団体や教会の構成員のうち、一人残らず100%が、この法案に反対かというと、必ずしもそうではないでしょう。20%、いや30%くらいは賛成の人もいたかもしれません。「団体」として声明を出すということは、そのような人々の意見を無視することになります。キリスト者であっても秘密保護法案に賛成する自由はあるのです。「組織」として反対を打ち出そうとすると、その人々の自由を奪うことになります。それは果たして健全なやり方と言えるでしょうか。

このことを感じたのは、 「反原発」の声明を、ある教派が出した時でした。その声明文には「原発それ自体が聖書的ではない」という趣旨の見解が記されていました。私はそれを見て愕然としたことを思い出します。私自身は反原発の立場ですが、少なくとも、原子力発電という「技術」それ自体が「罪」だとは全く思っていません。本質的に罪を呼び込みやすい性質を内包しているとは思いますが、しかし「原発=悪」とは思っていません。もしそういう論理を取るならば、資本主義にしても、軍隊にしても、インターネットにしても、あらゆるものが「罪」とみなされるようになるでしょう。「原発=悪」という善悪二元論的な論理には、私は賛成できないのです。

そもそも、そのような声明を出した教派に、原発関連企業に所属している、あるいは所属していた信徒の方はどうでしょうか。「あなたの仕事は悪であり罪である」と宣言されたに等しいものです。そういう方々への牧会的配慮という点から見ても、「教派としての反原発声明」には非常に疑問を感じます。

つまり、政治的なイシューにおいてキリスト者は、あくまでも「個」として行動すべきであって、「組織」としてそれを行うべきではない、というのが私の考えです。個々人が、その責任において反対行動を取ることは良いのです。しかし教会単位、教団単位、あるいは超教派団体単位で反対声明を出すことには、慎重であるべきだと私は思います。そうでないと、あたかも教会は政治に対する「数を頼みとした圧力団体」であるかのように見られる可能性があります。自分の利害のために結託して政治に圧力を掛けようとしている。そのように見られることは、果たして得策でしょうか。

反対声明という行為には上記のような問題があるにもかかわらず「実効性は皆無」という、深刻なジレンマがあります。これを解消しようとすれば、公明党のように宗教政党を立ち上げるほかない訳ですが、もちろんそのような道はキリスト者の取るべき道とは思えません。

私たちがこの時代にあってなすべきことはむしろ、「ひとりのキリスト者として、この『私』は自分の信仰をどう告白するか」ということであって「組織体としてどう振る舞うか」ということではないはずです。むしろ、組織として動くということはともすると、それを隠れ蓑にして、個々の信仰告白がうやむやになる、という問題を孕んでいると私は見ています。

・・

もう一点、今回の法案においてキリスト教界の姿を見ていて感じたことがあります。それは「飛躍しすぎる」ということです。特に、「秘密保護法案=治安維持法=戦中に逆戻り」という、余りにも単純化されたステレオタイプの主張しか見られなかったのは、非常に残念なところです。

私自身は、これからの時代、特に周辺国や悪意を持った活動家などの存在を考えるに、守らなければならない「秘密」も一定程度あるはずだ、と考えています。つまり、秘密保護法案を全否定している訳ではありません。本来の論点は、「何を秘密とすべきか」であったはずなのに、いつのまにか「法案そのものが悪」というお決まりの善悪二元論的反対に陥ってしまった感が否めません。これは非常に残念なところです。

そもそも、秘密保護法案を、即座に治安維持法に結びつける論理は、「イメージ」としてはあり得るかも知れませんが、反対の根拠としては余りにも脆弱かつ感情的に過ぎ、それこそ賛成派に付けいる隙を与えるだけであった、と思っています。

確かに戦中の苦い記憶があるのは事実です。とりわけキリスト教会にとっては、多くの葛藤をもたらした期間であることは論を待ちません。しかし、過去の苦い記憶があるからといって、少しでもそれを想起させるような動きがあると、たちどころにリンクさせるのは、稚拙なやり方ではないでしょうか。果たしてそれが私たちの取るべき道でしょうか。

「歴史は繰り返す」と言いますが、過去に起こったことが、そのまま同じように現代にも繰り返される、という意味ではないはずです。時代は移り変わり、技術もかわり、人々も変わる。サタンのやり方はさらに巧妙かつ狡猾になって、私たちの想像もしなかったような方法で襲いかかってくるのではないでしょうか。ですから、現代におこっていることを、過剰に「過去の記憶」と結びつけることは、「新しいタイプの脅かし」に対応する力をそぐことにもなりかねない、と私は考えます。

キリスト者はむしろ、表層的な動きに惑わされステレオタイプ的主張に心奪われるのではなく、物事の「本質」を見抜く知恵を主に願い求め、その時代にあって「個」としてどう歩むべきかを、日々考えながら、知恵を与えられながら生きて行く。それこそが今の時代、またこれからの混迷の時代に、私たちに求められていることではないでしょうか。

「予防」したくなる気持ちはよく分かります。しかし、予防にばかり気を取られていると、実際に病気になったときにどうすれば良いのか、と途方に暮れることにもなりかねません。私の見るところ、日本社会の病はすでにかなり進行しつつあると思います。そのような社会のただ中で、『この私』はキリストにあって、どのような「癒し」を社会にもたらすことができるか

それこそが、私たち「キリスト者」に求められていることではないでしょうか。

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Macにおける蔵書管理はBookpediaとPocketpedia3の組み合わせが最強

昨年末にメインのPC環境をMacに移行してから、徐々に常用ソフトの移行先ソフトを検討してきました。私の書斎には1500冊程度の蔵書があり、これを管理するシステムを必要としていたのです。Windows時代はフリーソフトの「私本管理」を愛用してきましたが、Macでは、数こそそれなりにあるものの、なかなかじっくりと評価する時間がありませんでした。このたびやっと評価を行う事ができ、ようやく決まりました。「Bookpedia」です。以下、今回の検討において重視したポイントは以下の通りです。

  • iSight(Facetime内蔵カメラ)またはiPod Touchの内蔵カメラを使用してバーコードスキャンを行い、大量の本を効率よく登録できること。
  • 登録した書物をクラウド又は同期によってiPod Touchで持ち運びできること。できればiPod Touchで登録も行えること。
  • Amazonにない古い書籍やISBNを持たない本でも自由に登録できること。
  • 有料ソフトでも良いが、できるだけ安いこと。
  • できればタグが追加できること。

以上の条件で、以下の7つの環境について、それぞれ評価を行いました。以下、概要と寸評を載せておきます。

  1. Delicious Library2
    Macの有料アプリ。画面デザインは書棚を模すなど美しい。このソフトのウリは、iSightによるバーコード認識精度が素晴らしいこと。ほぼどのような本でも少しかざすだけで認識する精度は特筆もの。欠点としては、値段が高いこと、iOSアプリが無いこと(以前はあったが、Amazonの規約の関係で現在は無くなっている模様)、タグが利用できないこと。
  2. Booxter
    Macの有料アプリ。画面デザインが余り美しくない。iSightによるバーコード認識をどうすればできるのかがわかりにくい。認識精度も紙質や照明、角度で激変するなど、使いにくい。
  3. Bookpedia
    これもMacの有料アプリ。一通り環境も揃っており画面も美しい。タグも追加可能。iSightによるバーコード認識は、照明や角度に左右され認識精度があまり良くない。特筆すべきは、Pocketpedia3というiOSアプリを購入すれば、同一ネットワーク上にあるiPod TouchをMacの外部カメラとして利用することができ、自動でBookpediaに登録できる機能があること(2012年10月のアップデートで搭載された模様)。そして、そのPocketpedia3のバーコード認識が精度が極めて高いのも好印象(但し二段あるバーコードの下段を指で隠す必要はあります)。さらに、バーコードスキャン→登録のために一切のタップを必要とせず、母艦Macからの「ピロン」という音だけで判断でき、大量の本を極めて効率よく登録できる。正直な所、このスピード感は、他のアプリでは決して実現できないところ。
  4. Books for OSX
    Macアプリの中では唯一、無料のソフト。iSightによるバーコードスキャンも搭載しているが、試したところ機能しなかった。開発も3年前に停止しており、将来性を考えると手を出せないソフト。
  5. MediaMarker
    無料のオンラインアプリを中心とするサービス。カスタマイズのしやすさ、TwitterやEvernoteなどの外部サービスとの連携も素晴らしい。無料のウェブサービスでありながら、自分の本棚を「非公開」にできる点は極めてポイントが高い。さらにiOSアプリも無料であり、バーコードスキャンも行える。また、Amazonにない独自の書物も登録して管理できるのは素晴らしい。唯一の問題は、このバーコードスキャンの精度が低いこと。手元の100冊程度の本で試したところ、30~40%は認識に失敗し、手でISBNを入力する羽目になる。これさえ改善すれば、非の打ち所のないサービスになる。 但し、広告もない無料サービスなので、将来に向けた事業の継続性が「?」なのがマイナスポイント。
  6. ブクログ
    MediaMarker同様の無料のオンサインサービス。無料iOSアプリも存在し、比較的使いやすい。バーコードスキャンの精度はそこそこ。このサービスは、無料アカウントの場合、自分の書棚が強制的に公開されてしまうのが難点。非公開にするには毎月500円を支払ってプレミアムアカウントにする必要がある。これが高すぎる。蔵書管理に毎年6000円も出そうという人は、そういないだろう。せめて月100円なら考えたのだが。独自書籍を登録できないのもマイナス。
  7. 読書メーター
    ブクログのライバルで、やはり無料でオンラインサービスを提供している。こちらは、ブクログに比べ、自分の蔵書のレビューや評価をより積極的に公開していこうという意図がうかがえるサービス。そのためかレビュー記事数はブクログよりも圧倒的に多い。但し、ただ蔵書管理が出来れば良いという私のようなユーザーには、むしろ面倒に感じる。さらに、iOSアプリの出来が余り良くなく、バーコードスキャン→登録の繰り返しに必要なステップ数が多すぎて、大量の本を登録するのに時間が掛かりすぎるのも難点。このサービスも、独自書籍を登録することができない。

以上を総合的に評価すると、Mac版Bookpedia+iOS版Pocketpedia3という組み合わせが、現時点で最強の蔵書管理システムである、と結論づけました。

…ともあれ、蔵書管理の目的は人によって異なっているのも事実です。私は、大量の本を効率よく管理する、という点を重視しましたが、レビューを重視する方もいるでしょう。そういう方はメディアマーカーや読書メーターがお勧めです。

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翻訳書評「わたしは決してあなたをひとりにしない」

新年あけましておめでとうございます。細々と記事を書いているこのブログですが、今年も続けて行きたいと思いますので、どうぞ宜しくお願い致します。

さて新年最初の投稿は、レビュー記事の翻訳をしてみたいと思います。2013年1月1日に、いのちのことば社から刊行された「わたしは決してあなたをひとりにしない 主イエスの声に耳を澄ます366日」(サラ・ヤング著・佐藤知津子訳、384頁、1890円)です。

この本は、いわゆる「ディボーション本」と呼ばれるジャンルに属する本で、毎日1~2頁の文章と聖書箇所を読みながら、信仰を深めていくためのものです。毎日触れる、というこの点で、ディボーション本というジャンルはキリスト教書において最もポピュラーなジャンルと言えましょう。

そのような中での、久々の新しい本なのですが、キャッチコピーを見た私は、若干の引っかかりを感じました。「主イエスが今、あなたに語りかける――聖書を神からの直接のことばとして語り直したユニークな聖書日課。数多くの人々に慰めと励ましを与え、癒しを与えてきた世界的ベストセラー、待望の邦訳!」とあったからです。

通常、私たち牧師は、「イエス様はこのように言われました」とは言っても、「私は(イエスとして)あなたに言う」とは決して言いません。神の子であり三位一体の神であるイエスと、土くれにすぎない人間の自分の間には、いくら明確に一線を引いても引きすぎることはない、それほど慎重に線を引きます。ところがこの本は、「イエスがあなたに語りかける」とあります。つまり著者は、「イエスとして読者に語る」という意味にとれます。

これは重大で、見過ごせない問題と思われます。クリスチャンは通常、聖書を人生における究極の権威と認め、聖書に並びうるものはない、と信仰告白をします。ところが、もし「イエスとして語る」ことが許されるのならば、第二、第三の聖書が登場することになります。ですからこれは聖書の権威に関わる、重大な問題と思われたのです。

このような懸念を抱いた私は、本書の出版元であるアメリカではどのように受け止められているのか、レビュー記事をさがしてみました。…そしたら、ありました。的確なレビュー記事が。アメリカの長老派の信徒で、ベストセラーのレビューを中心に執筆している、Challies.comというサイトを運営しているTim Challies氏による記事が。 以下では、そのレビュー記事を翻訳しつつ引用してみたいと思います。(元記事は以下のサイトで読むことができます。http://www.challies.com/book-reviews/jesus-calling

 

サラ・ヤングの「わたしは決してあなたをひとりにしない」(いのちのことば社、2013年。原題:Jesus Calling)を読み始めるまで、私はこの本のことも著者についても何の知識も持っていなかった。キリスト教書ベストセラーの定番だと思ってはいたが、手にとって眺めたことは無かった。私が最初に知りえた事は、この本がAmazonにおいて450件以上のレビューを獲得しており、5つ星評価が殆どで、「役立たず」評価を付けたのは数個しかない、ということであった。私は自分のKindleにダウンロードして読み始めた。

サラ・ヤングは、三世代目にわたる日本宣教師の妻で、セントルイスにある長老派の神学校、カベナント神学校において修士号を取得している。この本は一年を通してキリスト教信仰について考えるための短い霊想集であるが、しかし、この書物には一つの重要かつ極めて重大な「ねじれ」(twist)がある。

私は本書のレビューを以下の二点において行いたいと思う。まず、自分が語る内容について著者自身は何と言っているか、である。次いで、著者は何を語っているか、が続く。つまり、最初の部分では、彼女が語るその基盤について議論し、次の部分は、霊想の実際の内容について見ていく、ということである。

 

自分が語る内容について著者自身は何と言っているか


この書物は「神の『臨在』(Presence of God)」(この本では「臨在」は常に大文字で記されている。<訳注>以下大文字で始まるPresenceを「臨在」と表記)を経験することについての本である。つまり、主との関係をより近いものにするという、すべてのキリスト者が渇望する事柄についての本である。ヤングは「臨在」という言葉を、神が存在するという極めて明白な感覚を描写するものとして用いている。以下がその背景であり、彼女が「臨在」を最初に使用した箇所である。

「ある夜私は、心地よい山小屋のぬくもりを離れ、一人で雪山へと出かけた。深い森に分け入るにつれ、私は自分のひ弱さと寒さへの恐れ、そして月明かりの美しさを感じていた。空気は引き締まって乾き、吸い込むには痛いほどだった。突然、暖かい霧が私を包んだように感じた。私は愛すべき「臨在」に気づき始め、無意識にこう応答してささいた。「愛しいイエス様」。全く私らしくもない言葉であったが、私は自分がイエス様をこれほどまでに愛していると告げたことに、衝撃を受けたのである。この短いやりとりについて思いを巡らしたとき、私はそれが変えられた心の応答であることに気づいた。その瞬間、私は自分がイエス様のものであることを知ったのであった。これは、それまでの私が求めていた知的な答えとはかけ離れたものであった。これこそ、宇宙の創造者なるお方との関係だったのである。」

キャサリン・マーシャルやアンドリュー・マーレーといった作家の影響から、ヤングはこの神の「臨在」を追い求め、どのようにしたら常に神の臨在を知り、また感じられるかを学ぼうと探求し続けた。神への愛において成長し、神と共なにある時間を過ごしたいという願いにおいて成長し、また祈りにおいて神と語り、御言葉を通して神に聞こうとした。彼女が「呼んでおられる神」(原題God Calling)という本を手にしたのは1992年の事であった。(この本は「ある二人の”聞き手”によって書かれた霊想書」であった。この女性たちは、神の臨在の中に静かに待ち、紙とペンを手にし、神から受けたメッセージを記録しようと努めた。それらのメッセージは一人称で書かれ、”わたし”は神を意味していた)。この本が宝物となり、彼女の教科書となったのである。

ヤングはこう続けている。

「それからその年、私は自分も、神との交わりの時を通して、メッセージを受けとることができるかどうかと考え始めた。私は祈りの手帳を何年も書き記してきたが、それは一方通行の交わりであった。私だけが話した。神は聖書を通して交わりをなさることは知っていたが、私はそれ以上のものに憧れていた。私は一層、神が私にその日語られるべきとされる言葉を聞きたいと願った。私はペンを手にして神に聞き、神が語っておられると信じることは何でも書き出そうと決心した。最初に試みたときは何ともぎこちなく感じたが、しかし私はメッセージを受けとった。短く、聖書的で、しかも的確なものであった。私の人生においてまさに時宜を得た内容、つまり信頼と恐れと神に近づくことについてであった。私は自分の祈りの手帳にその応答を書き込んだ。」

あなたは、この本の内容、つまりそれぞれの霊想が、ヤングが主から受けたメッセージ─イエスの「臨在」と平和をより深く体験することを企図したメッセージ─であると分かっても、驚かないことだろう。 「この、神に聞く訓練は、それ以外のどんな霊的訓練にも増して、神との親密さを増し加えてくれた。だから私は、自分が受けたメッセージの幾つかを分かち合いたい。世の多くの場所でクリスチャンたちはイエスの臨在と平和をもっと深く経験したいと探し求めているように思われる。これらのメッセージは、そうしたニーズに応えてくれるであろう」。

我々は以下の点を見過ごす事はできない。私がこの本について人と話したとき、「この本はまるでイエスが読者に語りかけているような書かかれ方をしているんだ」と言うのを聞いたからである。しかし、ヤングはさらに途方もなく大胆な主張をしていることを知っておくことが大切である。すなわち、イエスが彼女を通して語っているのであり、イエスが彼女に与え、そしていま私たちによこしたメッセージである、という主張である。

この主張について、しばし立ち止まって考えるべき時が来たと思う。サラは、神からのある種の新しい啓示だと主張している。彼女は、神が彼女に語り、次いでこれらのメッセージを人々によこしたと言っているのである。当然、我々は彼女が聖書について何を信じているのか、尋ねてみねばなるまい。彼女は、これらのメッセージが聖書と等しいと主張しているのか?それらは聖書に勝るものなのだろうか?

彼女はそのような主張はしていない。いや、直接的には、だが。ある箇所で彼女はこう言う。「私はこれらの言葉が聖書のように霊感されていないことは知っている。でも、それは私が神に近づいていくのを助けてくれたのである」。後の箇所にはこうある。「聖書は、もちろん、無誤(誤りの無い)神の言葉である。私の言葉はこの普遍的原則に矛盾しないものでなければならない」。しかし、これが彼女の語る全てである。彼女は自分の書物は聖書に従属すべきものだと明言してはいるが、実際にそれが何であるか、また我々はそれをどのように受けとるべきかについて語ってはいないのである。それは権威あるものなのか? それは彼女を縛るものなのか、それとも我々を縛るものなのか? もしそれが霊感されておらず、無誤でもないのなら、いったい全体それは何なのか? その答えは得られない。なぜならヤングはすぐに、これらの神の言葉を日々の霊想の形で分かち合い始め、こう言うからである。「私は、神について黙想する中で、神様から個人的なメッセージを受けとり続けている。私の人生に困難があればあるほど、私は造り主なるお方からのこうした励ましに満ちた導きを必要とするのである」。

ジェームス・モントゴメリー・ボイスがあるとき、「われわれの時代における真の闘いとは、聖書の無誤性や無謬性ではなく、その十全性においてであろう」、と語ったことがある。つまり─我々は聖書に頼り続けるのか、それとも他の啓示を待ち続けるべきなのか?─ということである。 「わたしは決してあなたをひとりにしない」において我々は、この問題を非常に明確に見ることができる。ヤングは、聖書は無誤であり無謬であるが、それは不十分である、と教えている。聖書は彼女にとっては充分でなく、暗示するところによれば、彼女は我々にとってもそれは充分にはならない、と教えている。結局、彼女が最も重要だという霊的訓練とは、聖書を読むことではなく、この主に聞き主のメッセージを受けとることにこそある、ということが証明されたのである。彼女が我々にもたらすのは聖書ではない。少なくとも聖書が第一ではなく、イエスから受けたというこのメッセージの方である。

この原則一つとっても、この本は非常に疑わしいものであり、最大限の注意を払って扱われるべき必要がある。ヤングは、主から一直線で来たと主張する言葉を、我々に提示している。けれども彼女は、主がこのようなやり方で我々に語ることを期待すべき何の証拠も与えていない。彼女が与えるのはただ、彼女自身がそれについて経験したことだけである。 いまここで、我々にはいくつかの選択肢が残されている。直ちに読むのをやめるか。これらが主から来たという彼女の主張を拒否しながら読み続けるか。あるいは彼女が言うとおりに彼女を理解して読むか、である。個人的には、もしレビュー記事を書くのでなかったら、私はたちどころにこの本を処分したことだろう。彼女が、イエスの言葉を語る、と主張する限り、私は何の興味も見いださない。けれども、レビュー記事を書くという目的のために、読み進めるとしよう。

 

著者は何を語っているか


ヤングは一年をかけてとりくむ霊想書を、その全てにおいて一人称、つまりイエスからのメッセージとして記している。各々はそれぞれいくつかの聖句が続く。以下は1月8日の霊想の前半部分である。

「わたしは、やわらかに私の臨在を告げる。輝かしい彩りのきらめきが、やさしくあなたの良心に触れ、入口はどこかと探す。わたしは天においても地においても全ての力を持っているが、わたしはどこまでもあなたと共にありたい。あなたが弱ければ弱いほど、わたしはあなたに優しく近づこう。あなたの弱さを、私の臨在の戸のところに置け。足りなさを感じたときはいつでも、わたしがあなたの永遠の助け主であることを思い出せ。」

霊想の大半が命令よりもむしろ確言(affirmation)であることは興味深い。それが意味するのは、この本が規範的であるというより、描写的な傾向に向かうであろう、ということである。我々にどう生きるべきかと語るイエスは少なく、イエスとは誰で、我々は何者で、そしてどうすればイエスの「臨在」を楽しめるかを語るイエスが多い。 以下の点は注目に値する。すなわち、こうした確言が扱っているのはクリスチャンとしての経験の非常に狭い範囲だけである、ということである。さらに、本書イエスの言葉の多くが、聖書においてイエスが語る事とはごく僅かしか類似点がないことも同様に注目に値するだろう。例えば、「わたしの臨在の光を、あなたのただ中へと染み渡らせよ。あなたの思考の焦点をわたしに向けるようにして」とあり、その少し後にはこう続く。「わたしの臨在の神秘の中に隠れることを学べ。この世において、あなたの義務を行うかのようにして」。私にはこれが何を意味するのか分かりもしなければ、どのように適用できるのかも分からない。そこには私が従うべき明瞭なる命令もなければ、イエスとは誰かについての、何の明確なる言葉も無いのである。

 

結 論


「わたしは決してあなたをひとりにしない」は、それ自身のあり方において、非常に危険な書物である。その神学は概ね妥当に聞こえはする。しかし私が最も関心を抱くのは、本書がイエスから直接言葉を聞くよう教えていること、そして、そのような言葉を分かち合うのがクリスチャンの普通の経験である、と教えていることである。事実、本書はその経験を他の全ての上に置いている。そして、このことは本書をして、危険な前例とならしめている。私は、この本を推薦するべきいかなる理由も見いださない。

 

いかがでしょうか。「一人称のイエスが自分に語りかけてくる」という点は、確かにこの書物をして「新しい!」と感じさせてくれるでしょう。これまで、そのような語り口をする書物は殆ど見られなかったからです。

しかし、考えてみて下さい。なぜ人々はこれまでそのような語り口をしてこなかったのだろうか、と。そこには明白な理由があります。なぜなら、もしそのようなことをすれば、それは聖書に並び立つ権威を提示することになり、ひいては聖書の軽視、さらには聖書の否定にまで繋がっていく危険性をはらんでいるからです。 敬虔な人々は、そのような危険性を十分に理解し、注意深くそのような愚かな振る舞いを避けてきました。聖書の権威がいささかも貶められることになってはならない、と。

この書物では、その原則が事実上、破られようとしています。いや、破られたと言えます。著者の個人的な体験に過ぎない言葉を「イエスからのもの」として「他者に提示する」ということは、著者をして、聖書記者と同列の地位に置くことに他なりません。たとえ著者が文言としてはそれを否定したとしても、実際行っていることは、聖書の軽視に等しいのです。

そもそも、私たちが、彼女の言葉が本当にイエスによって語られたかどうかを検証する手段が何もないことが問題です。悪霊が語っているのでないと、何を根拠に言えるでしょうか。ただ聖書に照らし合わせるしかありません。しかし、著者は聖書を語るのでは無く、「イエスの言葉」を「一人称」で語ろうとします。これは、聖書の権威に服する者の姿ではありません。

Challies氏がレビュー記事の中で、J.M.Boice氏(福音派の著名な著述家で、多くの書物や記事で知られる)の言葉を引用しています。「われわれの時代における真の闘いとは、聖書の無誤性や無謬性ではなく、その十全性においてであろう」。これはまさしく正鵠を射た指摘であると思います。「個人預言」や「啓示」と言った言葉は、一部の急進的なペンテコステ派のサークルの中では頻繁に聞かれる言葉です。しかし、この書物のように、穏健福音派のサークルの中にも、それは形を変えて入ってきつつあるのだ、ということを、私は感じています。

・・・

もちろん、著者の姿勢に共鳴する部分が無い訳ではありません。味気ない祈り、無味乾燥なディボーション。多くのクリスチャンが、そのような経験を持っています。それを何とかしたいと思っている人は、少なくありません。

しかし、そのような営みはあくまでも、当事者であるクリスチャンが「聖書を土台にして」、主と個人的な交わりを築いていく、そのプロセスの中でこそ生まれていくものであって、サラ・ヤングという他人を通して行われるものではありえないのです。たとえとしては不適切かもしれませんが、それは下手をすると、某政党を立ち上げて政界に出ようとしている某新興宗教代表による「霊言」と、事実上何ら変わることはない。そう言えるかもしれません。いや、本書の場合、それが「聖書的であるかのような装い」をしているだけに、一見するとこれが聖書であると勘違いする人が出そうで、余計に注意が必要であると考えます。

この書物を手にとって、自分のディボーションの糧にしようかどうしようか迷っている方々は、以上のような点を決して見過ごしてはなりません。

私個人としては、このような書物を信徒の方に薦める訳にはいきません。いや、正直な所、このような「聖書に聞かず、イエスに直接聞こうとするムーブメント」が日本のキリスト教界に広がることを、非常に恐れています。出版元であるいのちのことば社に、そのような認識があるのか無いのか、それは分かりません。

ですが、いち市井の牧師として、この問題をそのまま放置することはできないと考え、Challies氏の記事をご紹介しつつ、問題提起をさせて頂きました。

この記事が、本書を手に取る「前」に、参考情報として機能することを願いつつ。

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タイルUIはなぜ使いにくいか

巷ではWindows 8が発売され、PC業界は久々の活況となっています。 景気という面からはこれは喜ぶべきことなのかも知れませんが、個人的には私はあまり喜んではおりません。

なぜか。

それは、Windows 8が次世代のデザインスタンダードとして強く推進しているModern UIというデザインに、どうしても馴染めないからです。 Moder UIとはどういうものかは、Windows 8を使用すればすぐに理解できるでしょうから本稿では触れません。 要するに、単純な罫線で画面を区切り、原色系の色で塗り分け、白一色のフォントで文字を書いて情報を伝えようとする。そういうアプローチです。 私はこれを「タイルUI」と呼びたいと思います。

実は、このタイルUIはウェブサイトや、様々なソフトウェアの最新版にも次々と反映されるようになって来ています。 例えばSkypeの最新版はもうまさにこのタイルUIですし、TeamViewerというリモートデスクトップソフトウェアも追従しています。 ウェブサイトにもこの動きは広がっていまして、その代表例はインプレス社の「Watch」という、IT系のコアな情報サイトです。 実際にサイトを見て頂ければすぐに分かるのですが、以下にスクリーンショットを貼っておきます。

WS001

私がとりわけ見づらさを感じているのは、上の画像の最上部にある、メニューバーの部分です。拡大すると以下のようになります。

WS000

なんだ、全然見づらくないじゃないかと思う方もいるかも知れません。ところが、これが見づらいのです。その理由を以下に挙げます。

1.余りにも平坦なので境界が分かりにくい

タイルUIの基本は、何の装飾も施さない単純な罫線でボタンを区切る、ということです。 一見すると合理的に見えますが、上記の画像のように区切り線が1ピクセルしかないような細さの場合、どこからどこまでがボタンなのかが、一目では分かりません。 特に文字が詰まっている場所(上のHeadlineとクラウドの間など)はその傾向が顕著です。

Watchでは、視認性を少しでもあげようとしたのか、各ボタンの下側を色分けして、違いを出そうとしてます。 …ところが左側4つのボタンは余りにも似た色であるため、色で区別するのは不可能なほどです。さらにこのボタンは、サイト本体の地の色である白色と同一の色であるため、そもそもボタンであることが分かりにくい、という問題もあります。 何らかの色を付ければすぐに分かるのですが、この場合、背景に溶け込んでしまっているのです。 これはデザイン上の大きな欠点だと思います。

2.どのボタンが押されているのかが分からない

こちらの方がより大きな問題だと思いますが、今現在見ているのはHeadlineというサイトなのですが、上記のボタン画像を見る限り、それが全く分かりません。 全部が同じ色だからです。 今回はまだ左端なのでよいのですが、これが真ん中付近になると、大きな問題となって現れます。 上の例でいうと、たとえば最初にAKIBAをみたとしましょう。 そしてその後にAV(Audio & Visual)に行こうと決めていた、とします。 AKIBAを見終わりました。 さあAVはどこだ…?となった時、今自分が居るはずのAKIBAに、それを示す何の表示もないため、訪問者はいちいち「AV」という文字を一から探し直す羽目に陥ります。 小さな手間ですが、これは実は大きなマイナスポイントです。 なぜなら、ボタンが地の色と同じなのでそもそもボタン自体が探しづらくなっているのに、それに輪を掛けてワンステップ増えるからです。

Windows 8では、このあたりはかなりよく考えられてはいるようで、少なくとも起動直後の画面がそれほどみづらい、という雰囲気はありません。 公式サイトを見れば分かりますし、RT版を使った経験から言ってもそうです。 各タイルの間は太い黒の線で区切られていますし、ボタンは見分けやすい色でちゃんと塗り分けられています。 これなら問題は無い、と思うかも知れません。

ところが、ひとたびアプリケーションを立ち上げ、そのアプリにもタイルUIが適用されていた場合、途端に使いにくくなります。 なぜなら、上に上げた問題が出てくるからです。 特にメニューの部分でそれが顕著です。 メニュー領域は狭いので、太い線で区切る訳にも行かず、かといって、多くの色で塗り分ける訳にも行かないからです。

その結果どうなるか。

真っ白な紙の上に、アイコンや文字がバラバラッと並べられた雰囲気になります。 言葉で言っても分からないので実例を示すと、来年に出ると言われる Word 2013 の画面例を見てみましょう。

いかがでしょうか。 非常に目が疲れる印象はないでしょうか。 え?疲れない? そういう方は大丈夫です。 どうぞお使いください。

私にはこれは悪夢にも等しい画面です。 白が強すぎますし、画面にコントラストが余りにも無さ過ぎるために、パッと見て何がどこにあるかが分かりにくいのです。 私にとっては、現在使用している Word 2007 の画面の方が、圧倒的に見やすく感じます。

WS004

この違いがどこから来るのかと言うと、以下の点にあると思います。

  1. 用紙の境界が色で分かり、入力できる所とそうでない所が一目瞭然である。(=コントラストが高い
  2. ボタンが、実物のボタンに近いデザインで、「押す」という動作を模して作られているため一目で分かる。(=実世界をシミュレートしている
  3. 白の領域が少ないので目が疲れにくい。

正直な所、私は未だにMicrosoftがなぜタイルUIを採用したのか、未だに理解できない思いでいます。 初心者にとっては、ボタンがボタンだと分かることは非常に重要なことです。 ところが、Word2013のUIでは、それは全く分かりません。 これでは、Word2013からパソコンを使いだした人は、さっぱり使い方が分からないでしょう。

Microsoftのこのデザインポリシーは、実はAppleのそれとは正反対を目指したものです。 Appleのデザインポリシーは、「実世界に存在するものに、できるだけ近づけてデザインする」ということです。 手帳であれば手帳の革の柄、紙の重なり具合、バインダーの輪までも写実的に示したりします。 また、ボタンについては「どうみてもこれボタンにしか見えない」というくらい、盛り上がっていたり、陰を付けたりして、実物らしく見せかけています。

このAppleのデザインポリシーについては、評価する人とそうで無い人がいますが、少なくとも確実に言えることは、「初心者にとって分かりやすいのは、Appleのデザインポリシーである」ということです。 なぜなら、「見て明らか」だからです。 実世界のものを模しているのですから当然のことです。 思うに、これこそがApple製品が評価される最大の理由だと私は考えています。

・・・

私はWindows3.1時代からWindowsを使ってきました。 Windows 7になって、その美しいデザインと、その軽さをかなり気に入ってきました。 ところが、今回のWindows8は20年前のWindows3.1に戻ったかのようです。 新しい潮流を作り出そうとするマイクロソフトの心意気は認めたいと思います。シンプル・イズ・ベストという信念も、時には大切でしょう。

けれども、Windows3.1の時代は、比較対象がなかったのでタイル的なUIにも疑問を持ちませんでしたが、iOSやMacのデザインがこれ程社会に浸透してしまった今の時代に、このデザインは正直「無いでしょう」と言いたいと思います。

Windows8が発表されたとき、20年近いWindowsユーザーの私は、Windowsから離れる決心が付きました。 それくらい、今回のタイルUIは私には合わないUIです。 そして、これは私だけでは無いと思います。 Windows8が浸透してくるにつれ、長時間モニタを見続けるオフィスワーカーの眼精疲労が激増することでしょう。 ストレスも、増えることはあっても減ることは無いと思います。 特に、タッチ画面ではなく、マウスとキーボードでWindows8を使う人(オフィスワーカーの大多数がそうだと思いますが)にとっては、本当に厄介な問題になると、懸念しています。

願わくば、Windows9では、元の方向に戻ってくれることを期待したいですが、その頃には私は完全にMacに移行していることでしょう。

残念ですが、このようなUIでは、長時間モニタを見続けるような仕事はできない、と結論付けざるをえません。本当に残念、無念ですが、仕方が無い所です。 他に良いチョイスがあるのですから…。

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キリスト者として、自民党の改憲草案に反対する

世の中は12/16の衆院選に向けた動きで、にわかに色めき立っています。 現在の所、世論調査では自民党が第一党を確保する可能性が高い訳ですが、仮に自民党が政権を取った場合、改憲を目指した動きが活発になる可能性は、決して低くはありません。

 

そこで、この機会にもう一度自民党の改憲案を見直してみました。 そのために、以下の記事が大変参考になりました。

 

   
『日本国憲法改正草案』がヤバすぎだ、と話題に・・・

 

タイトルとは裏腹に、現行憲法と改憲案を見やすく並記してあるなど、基礎資料としての価値があるページなので、ぜひ見て頂きたいと思います。 国の将来が掛かっているからです。

 

戦争放棄の条項が削除されたり、基本的人権の条項が改悪されたりと、既に非常に大きな問題が指摘されている所です。 もしこのまま憲法が改定されたりすると、これまでの自民党の傾向からいって、どのようなひどい世の中になるかは、想像に難くありません。

 

けれども本稿の目的は「宗教者として」、この改憲案を吟味することです。 従って、当然ながら20条に注目する訳です。 上記解説ページでもこの条文は見事にスルーされてしまっていますが、決して見逃すことのできない改悪部分が存在しています。

 

まず現行憲法を以下に貼っておきます。

 
   

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。      
② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。      
③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 

   
これに対して、自民党の改憲草案では以下のようになっています。

 
   

(信教の自由)      
第二十条 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。      
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。      
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

 

青字の部分は、特に注意すべき点です。問題点を以下に列挙します。

 

1.政教分離原則が撤廃されてしまう

 

現行憲法の二十条第一項に存在した、「又は政治上の権力を行使してはならない」という重要な文言が、そっくりそのまま削除されています。 政教分離を定める最大にして根本的な原則がここで完全に消失していることが分かります。 改憲案では、宗教団体が政治活動を事実上自由に行うことが可能になります。 さらに言えば、ある宗教団体が政治的権力を行使して敵対する宗教団体を攻撃したりあるいは非合法化するといった措置に道を開くことになるからです。 これは決して許されることではありません。 歴史を振り返れば、宗教団体が国と一体化したときには、常に悲劇が引き起こされてきました。 キリスト教会でさえ、国教化されて以後は宗教改革に至るまで基本的には信仰的純粋さを失っていき、かつての被迫害者が新たな迫害者に成り代わるという醜態を演じることになったのです。 この日本でも、明治憲法下では神道と国家が一体化し、祭政一致国家が築かれました。 その結果何が起こったかは、歴史が証明する所です。 宗教団体は政治に関与してはなりません。 それは現行憲法第二十条の中心であり、どこまでも尊重されるべきものです。

 

では、なぜ自民党はこのような案を作るのか。 言うまでもなくその理由は、連立を組む公明党に対する配慮であることは火を見るより明らかでしょう。 現在でも公明党と創価学会の明確な繋がりは衆知のことであり、宗教団体が権力を握っているという点で憂慮すべき事態が続いています。 ところが自民党の改憲案では、さらにこの事態が深刻化することが予想されます。 たとえば日蓮正宗といった創価学会とは敵対関係にある団体に対する圧力が行われる可能性は、大いにあり得ます(日蓮正宗に対する創価学会の攻撃性は、『聖教新聞』などを読めば明らかです。見るに堪えない罵詈雑言が毎日のように記されています。)

 

2. 社会儀礼や習俗という名目で宗教の強制が起こる

 

キリスト者が最も問題とすべきは、改憲案の第三項の最後に追加されている「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。」という文言です。 何故問題なのか。 それは、「社会儀礼である」とか「習俗だ」という言い方をすれば、事実上、いかなる宗教行事でも、政治が関与し、主体的に執り行うことが可能になるからです。

 

そもそも「社会儀礼」とか「習俗」という用語は曖昧模糊としたものであり、使う者によっていかようにも解釈できるものです。 つまりこの文言は、権力者が自らの欲する宗教儀礼を「社会儀礼」とか「習俗」の名のもとに無制限に行うことを可能にする。 そういう表現だと言って良いのです。

 

これはキリスト者にとっては決して見過ごす事のできない変化です。 たとえば、公立学校や公共施設において、従来は政教分離原則のゆえに制限されてきた神道的行事、あるいは仏教的行事が、公然と行われるようになり、「宗教ではない」の名の下に、キリスト者も宗教儀礼を強制されるようになる可能性が生じるからです。 いや、このような改憲案を考えるということ自体が、そういう目論見でなされていると断言してもよいでしょう。

 

この文言が致命的に問題なのは、「何が宗教儀礼であって、何が宗教儀礼でないかは、人によって理解が異なる」という当然の前提を、完全に否定しているからです。 キリスト者にとっては、地鎮祭や初詣、どんと祭といった行事は「明確な宗教儀礼」以外の何物でもありません。 ところが「これは日本の文化であり習俗だ」と言えば、キリスト者はそのように考えることが許されなくなる訳です。 つまり、判断の自由を奪われるということです。

 

そもそも、「文化」や『宗教」、あるいは「習俗」を規定することは、国家権力が行うことではありません。 それは市民のものであり、多種多様な価値観のなかで、互いを尊重しあって、共生の理念のもとに醸成されていくべきものです。 ところが自民党の改憲案では、「これが日本人だ。 これが日本文化だ。 これが習俗だ」というものが、一意に規定されることになります。 このこと、つまり「日本人」を枠に当てはめ、逸脱を許さないシステムを造り上げる。 このことこそ、自民党が本来目指しているものなのです。

 

今回の投稿を書くにあたって、改めて現行憲法の前文を読み直してみましたが、何と崇高な文言でしょうか涙が出ました。 世界を見回しても、これ程素晴らしい前文を持つ憲法はないのではないか。 本気でそう思ったほどです。 それに引き替え、自民党の改憲案の前文が生み出す「ことば」の何と軽く、何と空疎なことでしょう。 内側にあるものが「ことば」になっていると考えるならば、現行憲法を考えた人々の思い描いた世界と、自民党の考える世界は、余りにもかけ離れた世界と言わざるを得ません。

 

「現在の憲法は問題だ、だから変えよう」。 巷はそのような雰囲気に押し流れつつあります。 私たちは、余りよく考えもせずに、その「空気」に流されてしまってはいないでしょうか

 

問題なのは現行憲法ではありません。 その崇高な理念を理解せず、その思想を踏みにじっている政治に、問題があるのです。 修正されるべきは憲法ではなく、「公僕」でありながらこのような改憲案を考えつく政治家の心の闇の方ではないか。そう思わされます。

 

私たちはキリスト者として、この改憲案には断固として反対しなければなりません。 そうでなければ、恐ろしいことになります。 教会活動も、日本的宗教儀礼への不参加の権利も、著しく制限されることになるでしょう。 そういう意味で私たちは、日本の宣教史の転換点に差し掛かっていると言っても過言ではありません。 目下のところメディアは経済や国際問題ばかりに目を向けさせようとしていますが、そのようなお仕着せの報道に目を奪われていると、足元をすくわれることになるでしょう。 私たちは、この問題に関する限り、「蛇のようにさとく」あらねばなりません。 目を見開き、何が起ころうとしているかを、霊の目で見極めなければなりません。

 

と同時に、このような改憲案が実際に実現することがないようにと、熱心に祈らなければなりません。 それが、今回の選挙において、主がキリスト者に期待しておられる事ではないでしょうか。

(※2013/7/17追記)
宗教と憲法20条改正との関連について、宗教情報センターのサイトに、大嘗祭や新嘗祭などに関 係する過去の憲法論議も加えた、より詳しい記事が書かれています。キリスト教の立場と言うよりも、より広く「宗教界」から、という視点にはなりますが、参 考になりますので、ぜひご覧下さい。

「憲法改正が宗教界に与える影響―信教の自由と政教分離」
http://www.circam.jp/reports/02/detail/id=4267

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研究生活から離れて10年に思うこと

昨日、以下のような個人ブログの記事を見つけて、感慨深い思いになりましたので、一筆書こうと思い立ちました。

コンピュータ科学の博士課程にきて初めて分かったこと4つ

著者の方はコンピュータ科学の中でも「ユーザーインターフェース(UI)」がご専門のようです。 私が専門としたのは「パターン認識」と呼ばれる分野で、特に「感情音声認識」という分野をやりました。これもれっきとしたユーザーインターフェースなのですが、寡聞にして、記事中に触れられている国際学会は知りませんでした。私が大学にいたのはもう10年も前の話なので、最近できた学会かもしれません。

ともかく、私がこの記事に非常に親近感を感じたのは、最初に挙げられている以下の4つの項目に、まったく同感だったからです。

  • 研究には時間がかかる
  • フルペーパーを書くのは大変
  • 新規性は大きさよりコントラストが大事
  • 研究生活は自律心がないとつらい

詳しくはぜひ記事を読んで頂きたいのですが、もし私が博士課程に行く前に、このことをよく分かっていれば、また違った展開になっていたかな、と思うのです。

私がいた当時の博士課程では、上記のフルペーパーに相当する論文を、3年間の課程で二本通すことが、必須条件になっていました。これがどれだけハードかというと、通常、フルペーパーというものは、書き始めてから論文誌に掲載されるまで1年は見ておかないといけないからです。 投稿した論文が一発で採用されることは極めて稀で、通常は査読の段階でコメントが入って書き直して再提出したり、最悪リジェクトされることさえあります。 そういうやりとりにかなりの時間が掛かるのです。

それを3年間で2回通すということは、単純計算であと1年しか残っていないことになります。その残りで博士論文を書いたり、国際会議で発表したり、ということになります。 段階を追って行っていたのでは当然時間切れで、同時並行にやらねばならないことは明白です。つまり、上記の4番目にある、高い自律心をもって、スケジュールを厳密に定め、目標に向かって一直線に突き進む。そういう資質が不可欠です。 私に足りなかった一番大きなものは、この分野かなと思っています。

もう一つ、フルペーパーに要求されるのは「新規性」です。修士論文までは、新規性はそれほど重視されないことが多いでしょう。誰かがやっている分野を少し改良した。それで十分な場合が多いことでしょう。しかし、博士課程ではそうはいきません。 まだ誰もやっていない/主張していない何らかの方法や理論、あるいは応用を開発しないと、認めてもらえません。

しかしこれが実に難しい。 ほとんどの分野は、誰かが何かやっています。 もし人がやっている分野に進むのであれば、その分野の論文をしらみつぶしに精読して穴を探さなければなりませんし、人がやっていない分野を探すためには、もっと広い分野を網羅しなければなりません。しかも、ただ網羅するだけではダメで、「理解しなければならない」訳です。そうして初めて、どこが未開拓の分野かが分かる。 しかし、正直な所、それが分かれば苦労しないのです。修士課程から継続した分野であれば、未開拓の部分はある程度分かってきているはずですが、それでも難しい。

結局、「何をテーマに選ぶか」で運命が決まる、ということになります。実際、これが博士課程の現実だと私は思います。3年間のかなりの部分を費やしてから、「これはものにならない」と気づいても、手遅れです。それからやり直しても時間が足りません。 そうすると博士課程を課程としては終えたけれども、博士号はもらっていない、ということになります(「博士課程単位取得退学」とか、「工学博士」と書かないで、単に「博士課程修了」と書いてある場合は、十中八九、このパターンです)。

私の場合、当時私が従事していた「感情音声認識」という分野は、まだ余り注目されていない分野で、現在、「Siri」に代表されるような音声認識花盛りの時代となることを考えれば(当然それを予想していましたが)、いくらでも新規性を発揮する場面はあったと思います。 しかし、当時の私は、自分の将来はコンピューター科学なのか、それとも神学なのかで悩んでいました。その結果、何をテーマにするか、以前の所で足踏みしながら1年が経ちました。

1年がたってようやく私も、冒頭に引用した4つの事柄を理解し始めました。 コンピュータ科学の分野で自分が芽が出るには、厳しい面がある、ということを認めざるを得ない。そう思った訳です。

・・・

その後私は神学校に4年間行きました。 私の母校は、大学卒業者を対象にした神学校であり、神学教育としては、いわゆる「Master of Divinity (M.Div)」と呼ばれる課程に相当する教育を行っており、修士号に相当するものです。

正直に言いますと、私はこの4年間で、初めて「学ぶ」ということはどのようなことか、「人を教えるとはどういうことか」を学んだ、と思います。 これだけ勉強したのは受験期にもなかった、と思う程勉強したつもりですし、本も大量に読み漁りました。 しかしもっとも大きかったのは、卒業論文の指導を受けた経験です。

私の卒論の恩師は、古代オリエント学、特にある遺跡の研究にかけては世界的な権威と呼ばれる方です。 しかし、「世界的な権威」とは裏腹に、実に気さくで、学生達とも距離が非常に近く、無知な私の無鉄砲な質問や議論にも、丁寧に受け答えして下さる姿が印象に残りました。 何より卒論指導においては、「いま、限られたこの時間で君にできることは、ここからここまでのことである。 ここから先は次の論文の範疇であり、さらに先のことはライフワークになる」という、成すべき物事の範囲、というものを明確にして下さったのです。

私は、論文指導に置いて、学生が最も求めているのは、このような大所高所から、「カバーすべき範囲」を明確にしてくれることだ、と痛感しています。 なぜなら、私が大学時代、最も必要としていて、結局余り得られなかったのも、そこだったからです。

「若さ」ということは、無限に伸びる可能性を秘めている反面、本質で無い枝葉のことに労力を浪費する危険性と隣り合わせです。 そういう若者には、「そこをやっても伸びない。いま君にできることはこれだよ。そこから先は次のステップだ」と、率直にアドバイスしてくれる師が必要なのです。 私にとって神学校時代の恩師は、まさにそのような存在でした。

これはまた、換言すれば「枝刈り」とも言えます。 ヨハネ15章に書かれている、「ぶどうの木」のたとえそのものです。 あの箇所で、農夫である神は、「もっと実を結ぶために、実を結ばない枝を刈る」とあります。 まさに、この働きを担う。 それが指導者としての役割だと、今では痛感しています。

・・・

人生とは面白いもので、私が一度は離れたパターン認識の知識(今となっては貧弱なものですが)が、聖書本文解析の分野で役に立っています。

私にとっては、コンピュータ科学の分野をあのまま続けていても、芽は出なかったでしょう。 当時の私を知る方々は、恐らく皆さん、そう思っておられると思います。 自分でもそう思っているのですから。 研究者としての私は、まことに貧弱な存在であり、プレッシャーとアイデンティティの危機との闘いの中にもありました。

しかし、今牧師として、はまったく別の道にいますが、あのときの経験は決して無駄にならず、しっかりと生きています。 そして、あのとき私が経験したのと同じようなプレッシャーを経験している人々の気持ちが、よく理解できますし、そこに寄り添いたいとも思っています。

・・・

研究生活から離れて、ちょうど10年になりました。回り道ではありましたが、神様はいつも真実であることを、実に味わい深い実感をもって感じている私がいますから、感謝です。

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トラッキング防止アドオンGhosteryに独自ルールを追加する方法

ブラウザーでウェブサイトを見ていると、Facebook用の「いいね」ボタンや、ツイッター用の投稿ボタン、あるいはmixiのシェアボタン、はてなブックマークの追加ボタン、Google+の「+1」ボタンなどが表示されていることがあります。

何も知らないでいると「そうか、親切にシェアしやすいようにボタンを置いてくれたんだな」と思い、クリックしたりしてしまいます。

ところが、これらのボタンは実は「トラッキング」と呼ばれる、ブラウザー使用者のウェブ上での行動を把握(してマーケティングに利用する)するためのコードを含んでいるものが多くあります。しかもこれは、実際にボタンを押さなくても、表示されるだけでトラッキングが行われるものもあります。…というか、ほとんどのボタンはその目的で設置されているとみて間違いありません。決して「便利で良かった」というボタンでは無いのです。

本来Facebookやmixi、Googleとは関係の無いはずのページを見ているのに、これらの会社に閲覧データを与えてしまう訳です。これはセキュリティ上好ましいこととは言えません。

これを防止するためには、ユーザー側で対策をするしかありません。具体的には、ブラウザーにアドオンを導入して、表示する前にトラッキング用のコードを除去するのが最も確実と言えます。

そのためのアドオンには幾つかありますが、インターフェース、設定のしやすさ、表示のわかりやすさ等で最も良いと思われるのが「Ghostery」というアドオンです。以下のURLにて配布されています。

http://www.ghostery.com/download

現在対応しているのは、Firefox、Safari、Chrome、Opera、InternetExplorerで、メジャーなものは事実上全て網羅されています。

インストール方法等詳しいことは、ググって頂ければすぐに分かると思います。これをインストールすれば、Google、Facebook、twitterについては完璧に除去してくれます。

ただ一点、問題があります。それは海外製のソフトなため「mixi」や「はてな」など日本ローカルのSNSには対応していないことです。これらをも除去しようと思えば、自分でルールを作成しなければなりません。

そのための方法は以下のページに書いてありますので、ご覧下さい。

https://getsatisfaction.com/ghostery/topics/how_can_i_add_a_new_tracking_code_for_blocking

ただ、英語なので分かりにくいかと思います。そこで、Firefoxの場合で以下順を追って解説します(他のブラウザーの場合もほぼ同様と思いますが、試していません。あしからず)。

  1. ロケーションバー(URLが表示されている所)に「about:support」と入力してEnter。
  2. プロファイルフォルダ」の行にある「フォルダを開く」を押す。
  3. ghostery」フォルダを開く。
  4. メモ帳を開いて、「user.bugs.db」をドラッグ&ドロップして開く。
  5. 以下のコードをコピー&ペーストして貼り付ける。
    [{"type":"widget","aid":"10001","cid":"10001","pattern":"mixi\\.jp\\/share\\.pl","name":"mixi Button","id":"10001","affiliation":""},{"type":"tracker","aid":"10002","cid":"10001","pattern":"static\\.mixi\\.jp\\/js\\/share\\.js","name":"mixi","id":"10001","affiliation":""},{"type":"widget","aid":"10003","cid":"10002","pattern":"b\\.st\\-hatena\\.com\\/","name":"hatena Button","id":"10003","affiliation":""},{"type":"tracker","aid":"10004","cid":"10002","pattern":"b\\.st\\-hatena\\.com\\/js\\/","name":"hatena","id":"10004","affiliation":""}]
  6. 保存してメモ帳を閉じる。
  7. Firefoxを再起動する。
  8. Ghosteryの設定ページで「Bugs」の欄の「User Added」というリストを有効にする。
  9. mixiボタンやはてなボタンが設置されているページを読み込んで、正常に動作するか確認する。

以上です。ルールの作成は正規表現が分かっていればかなり簡単なので、見つけ次第、片っ端から追加していけば、セキュリティが少しずつでも向上することになります。

・・・

以上、Ghosteryのユーザールール追加についての日本語の解説が見つからなかったので、とりあえず書いてみました。

このような良質なツールがフリーで配られていることに感謝!

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通信費を安く抑えるならL-09C+IIJmioで決まり

このたび、外出用のモバイルWi-Fiルーターを入れ替えました。これまでは、以下の構成でした。   

プラン:DTI バイブリッドモバイルプラン    
回線:Docomo FOMA 3G MVNO      
速度:下り7.2Mbps、上り5.7Mbps(理論値)      
月額料金:3,610円(機器代込)      
ルーター:NetIndex RS-CV0C

このサービスが開始された2011年3月現在では、史上最安で3Gが使い放題になる画期的なプランでした。それまでの常識を一気に2000円以上下げる価格で、度肝を抜かれたことを覚えています。その後あの3.11東日本大震災が発生し、停電+固定回線遮断を経験した私は、通信手段確保の観点から、このサービスを申し込みました。当時は大人気だったため、実際に届いたのは2011年5月のことでした。それ以来、約1年半に渡って使用して来ましたが、以下の点が不満でなりませんでした。 

       
  1. とにかくスピードが出ない。Mbpsクラスが出るのは極めてまれ。また、しばしば「詰まる」現象が発生する。   
  2. 価格競争が進んだ結果、2012年秋の水準では維持費が決して安くはなくなってきた。   
  3. 組み合わせ指定のルーターの電池の持ちが悪く、かつ非常に使いにくい。

それでも「二年縛りで解約時は残期間に応じて回線分の違約金+機種の残債分」が1~2万円にもなるため、解約はせずに使い続けて来ました。それを見直すことにしたのは、「私の場合そもそも外で通信手段が必要な機会がかなり限られているのに毎月の維持費が高すぎる」こと。この一点でした。 

そこで、とにかく低価格なサービスを、ということで調査を開始した結果、以下のチョイスがあることがわかりました(これ以外にもありますが、縛りがあったり使い勝手が悪いものは覗いています)。

名称 速度 月額料金
DTI ServersMan SIM 3G 100kbps 490円
BB.exciteモバイルLTE 128kbps 750円
イオンSIM(b-mobile) 150kbps 980円
IIJmio 高速モバイル/D 128kbps 980円

この表だけを見ると、DTIやBB.exciteが料金面では最も安いように見えます。また、同料金であってもイオンの方が速いように見えます。 

しかし、ネットワークというものは、名目上の数字では計れないものがあるのです。特に「格安」を売りにするだけのサービスの場合、利用者が集中して輻輳が発生し、いくら待っても繋がらない、ということが起こります。私が去年DTIを契約した後に経験したのはまさにこのことで、その「遅さ」を身をもって経験する羽目になりました。 

重要なのは名目の数値ではなく、「実測値としてどうなのか」ということです。分かりやすく喩えれば、いくらフェラーリでも、首都高速ではノロノロ運転になるのと同じです。重要なのは「実際に時速何キロで走れるか」な訳です。 

さらに、国内の主要なサーバーからの、ネットワーク的な「距離」も重要になります。インターネットというものは、何台ものサーバーをバケツリレー方式でパケットを送り届ける仕組みになっています。その際、経由するサーバーが多ければ多いほど、「最初の反応が返ってくるまでの時間」が長くなります。この時間をはかるのが「ping」というコマンドで、単位は「ms(ミリセカンド)」で表すのです。 

格安サービスの問題点は、実測スピードが理論値の数分の一であるということと、pingの応答時間が劇的に遅いことです。例えばBB.exciteの一例ですが、以下のURLにあるスクリーンショットを見て下さい(他サイト様の画像へのリンクです)。 

BB.exciteのスピードテスト例

これを見ると、下りのスピードは172kbps、上りは192kbpsですから、公称値以上の数値が出ていることになり、一見すると速いように見えます。ところが、pingの数値を見ると、なんと「1371ms」となっています。これは、途方も無い長さです。標準的なインターネット回線では遅くとも400~500ms以下に収まるべきものですし、光回線では100ms以下になるべき数値です。 

これが意味していることは、「BB.exciteは、走り出せばそこそこスピードが出るが、走り出すまでが途方もなく遅い」ということです。たとえて言えば、大型トラックのようなものでしょうか。これは、ウェブサイトの閲覧など、沢山のファイルをダウンロードするような場合に、モロに影響してくる訳です。BB.exciteはサービスインしてまだほとんど日が経っていないにもかかわらずこれですから、今後はもっと遅くなるでしょう。

その点、IIJmioの優位性は、「安定してそこそこ速い、pingは極めて速い」ということです。以下の表を見て下さい。私が現在使っている、DTIのハイブリッドモバイルプランと、IIJmioのスピード比較です。(傾向を見るため、5回テストしました)。                                             

DTI 下り [kbps] 上り [kbps] ping [ms]
1回目 143 187 385
2回目 165 234 388
3回目 157 168 397
4回目 180 190 410
5回目 146 219 400
                                                       
IIJmio 下り [kbps] 上り [kbps] ping [ms]
1回目 151 72 175
2回目 152 98 234
3回目 159 97 172
4回目 185 96 183
5回目 147 77 207

いかがでしょうか。上り速度こそ半分程度ですが、下り速度は完全に拮抗しており、公称値の128kbpsを軽く上回る数値が並んでいます。なおかつping値は半分以下の数値が並んでいます。ネットを閲覧する際に重要なのは下り速度ですから、これはもう、十分にDTIの代替になりうることがお分かりでしょう。そして、両者の値段は3610円 vs 980円と、三倍以上の開きがあります。年間で言えば、数万円の差になります。これって、一体何なのか、という気分になりますよね。 そういう訳で、今回IIJmioを選択することにしたのです。

・・・ 

ただ、IIJの場合、問題点が一つあります。それは、適合するモバイルWi-Fiルーターを自分で用意しなければならない、ということです。

結論から言えば、これにはNTTドコモのL-09Cがベストです。IIJmio 高速モバイル/Dの適応機種リストを見れば分かりますが、LTE、テザリング、アンテナピクト表示の全てに対応している数少ない機種なのです。しかもバッテリーが3Gなら8時間も持つのも◎です。 

唯一の問題点は大きさ。これについては以下の比較画像をご覧下さい。

hikaku 

右からL-09C、RS-CV0C、そしてフリスクの箱です。大きさが想像できるでしょうか。

大きいことは悪い事ばかりではなく、L-09CはRS-CV0Cの二倍、電池が持つ訳です、これはモバイル用途にとってはかなり重要な要素だと思います。 

何より、このL-09Cは、現在Yahoo!オークションで新品が5000円程度で入手可能だ、ということです。通常この手のルーターは、1~2万円は軽くかかりますので、これは画期的と言えます。

実際にL-09C+IIJmioの組み合わせでiPod Touchにて使用してみましたが、ニュースアプリ、Facebook、Twitter等であれば、ほとんど何のストレスもなく利用することができました。私はまだ試してはいませんが、ネット上のレビュー記事を見ると、Skypeや050Plusも十分実用になるそうです。 

最後にIIJmioのもう一つの利点を。それはLTEに対応しているサービスらしく、「追加料金を払えば、LTEのスピードを生かせる」ということです。具体的には525円で100MB分の使用料を得ることができます。つまり、「今日はちょっと素早く調べ物をしたいな」という日は、オンラインで525円の追加クーポンを払えば、超高速になるということです。毎月5日そういう日があったとしても、まだ3000円程度。スマートフォンを下手に契約すると、その倍は取られます。

いかがでしょうか。非常時のバックアップ回線としては最適ではないでしょうか。維持費も毎月980円で、好きなときにいつでも解約出来る自由があります。私的には、これは非常に良いチョイスだと思っていますがどうでしょう?

※2012.12.14追記
検索エンジンから来られる方が多いようですので、追記しておきます。12月現在、IIJmioに対抗する有力なサービスが次々と始まっています。代表的なものは以下です。

  • 楽天ブロードバンドLTE
    980円ながらLTEで200MB分までの無料パケット料が含まれているサービス。一見すると非常に魅力的ではあるが、注意事項の欄を見ると「1カ月間の合計通信量が200Mバイトに達した場合、通信速度を100Kbpsに制限します」と書いてあります。よくある「三日間」ではなく「一月間」でこれです。これでは200MBを越えれば(LTEならすぐに越えるでしょう)事実上、常時100Kbps制限と同じです。一方、IIJmioの場合は「3日間で366MB」以上だと速度規制がかかります。(128kbpsでそれを越えるには6時間半以上連続でデータを流す必要があり、実際には滅多にない状況でしょう)。さらに楽天は知名度も高いことからユーザー数も多くなることが予想され、名目100kbpsの速度が実際にはさらに低下するという可能性が高いように思います。IIJmioにはそのような恐れは低いと考えられます。従って実際の運用環境を考えるなら、現在のところまだIIJmioの方が優れていると考えられます。

(※2013.3.21追記)

本日、IIJは以下のようなプレスリリースを発表しました。

http://www.iij.ad.jp/news/pressrelease/2013/0321.html

これによると、従来128kbpsであった接続速度が200kbpsまで、料金据え置きのままで引き上げられる、とのことです。これは非常に朗報と言えましょう。記事中にも記したように、IIJmioはこれまでも名目128kbpsながらそれを上回る速度を出してきましたが、それが200kbpsとなれば、日本通信の300kbpsサービスも、実接続速度で視野に入ると思われるからです。他社のサービスも追従してくると思われますが、IIJmioには高い接続応答性と安定性という揺るぎないアドバンテージがありますので、動画などを多量に閲覧するのでなければ、メイン回線としての利用も視野に入ってくるものと思います。イチオシの状況がさらに強まりました。

(※2013.4.26追記)

本日、さらに以下のような発表がなされました。

http://www.iijmio.jp/info/iij/20130426-2.html

これによれば、上記の200kbpsへの速度引き上げに加えて、LTE速度で毎月500MB分まで使用する権利が6/1から無料で提供されるとのことです。当初はキャンペーンとしてですが、終了翌日の9/1からは正式サービスにそのまま格上げだそうですから、実質、大幅なサービス向上と言ってもよいでしょう。キャンペーンとして始めることから見て、8月末までの間に、さらにサービスが強化されることも考えられます。今後も注目だと思います。

(※2013.4.26追記2)

なお、これとは別に、NTTコミュニケーションズによる次のようなサービスの提供が先日開始されました。

「NTT Com、月額980円で1日30MBのLTEデータ通信サービス」
http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20130408_594955.html

個人的に、現時点でIIJmioの最大のライバルとなりうるサービスは、このサービスだと思います。30MBというデータ量は、動画を2〜3本見ると到達してしまう量で、それを超えると夜12時まで100kbpsに制限されます。メイン回線としての利用は、少々厳しいかも知れませんが、サブ用としてなら可能性があります。恐らく大人気となるでしょうから、実際の接続速度や応答性がどの程度となるのか、未知数です。2013年夏〜秋にかけて頃が、一つの目安になるでしょう。ただ、Amazonで買うだけでよく、縛りもないので、テスト用にとりあえず購入してみてチェックする、というのも良いかも知れません。

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